メールマガジン登録
寄付はこちらから
寄付はこちらから
壁紙一覧


wind-designとは
昔から風は神の息と言われてきました。また聖霊(神の霊)は風とも言われています。
聖霊は吹きたいところを吹きます。
WIND DESIGNは風の吹くまま、知恵の宝庫であり、祝福のもとである聖書に書かれている言葉を紹介・配信するサイトです。
全て必要なことは聖書の中に書いてあります。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:32

どこの宗派にも属さず、宗教という形式ではなく、自由でのびのびとした視点で解説しています。
どうぞ、配信登録されて、祝福を受け取ってください。
(ものみの塔・モルモン教・統一原理とは無関係です)
toppegeへ
rss
安心して生きる
2013年2月12日

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ピリピ4:6~7



この聖書の言葉は、人間の考え、計画や方法を越えた神の平安が、私たちを守ってくれるという神の約束の言葉です。

私は、みなさんがこの神の平安を持つことで、人生に起こる様々な事柄に対して強さと誠実さとをもって向き合い、また人生が正しい方向に導かれて行くと信じています。

ネガティブな出来事があっても動じない心をもつ。

感情的にならず、冷静な判断力をもつ。

他人の評価や意見に左右されない。

どんなときも良い決断と覚悟をする。

これらすべては、私たちの内側に、神の平安を持つことで可能です。

ここでいう神の平安とは、「神との関係から来る心の安心」です。

これはちょうど、子供が親の愛を感じながら腕の中で眠るのにとても良く似ています。

旧約聖書にダビデというイスラエルの王が登場します。

彼は若い頃、当時のイスラエルの王であったサウル王から命を狙われていました。

その彼が、荒野での逃亡生活の中で歌った有名な歌の一節がこれです。


「あなた(神)はわたしの敵の前で、わたしの前に宴をもうけ、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます」
詩篇23篇



彼は、たとえ敵の前であっても神の平安があるので安心できる、と歌いました。

というのも、彼は神によって愛され、受け入れられ、理解されていることを知っていました。

だから、命を追われる身であっても安心し、また力をみなぎらせることができました。

私たちは日頃、人間関係がうまくいくように気を使い、万が一に備えてたくさんの保険をかけ、安定した大企業に就職しようと必死で勉強し、出来る限りお金を貯えることで、安心を得ようとします。

もちろんこれらは良いことですが、ここから得る安心は「状況や人の計画や方法」に依存していて、一時的な上、変わりやすく不安定なものです。

また、ある人は「はいはい、分かってるよ」と言いつつも、これらを失うことはもっとも辛いことなので、そうならないために多くの労力を費やしてしまいます。

でも、そのような私たちを、神は愛し、受け入れ、理解してくださっています。

この神との関係を信仰といい、私たちはいつでも個人的に神との信頼関係を持つことができます。

冒頭の聖書の言葉にあるように、私たちはいつでも自分の願いを神に知っていただくことができます。

みなさんが、内閣総理大臣に自分が願っていることを直接伝えることができる立場になったとします。(想像してみてください)

もちろん国の最高権威者であっても出来ないこともあるでしょうが、「分かりました。私が約束しますので、安心してください。何か困っていることがあったら、いつでも私に直接伝えてください。」と言われたらいかがでしょうか。

神に自分の願いを知っていただくことは、これ以上のことです!

私たちは神との関係を持つことで、神の平安によって心と思いとが守られ、本当に安心して生きることができます。

人生が楽しくて仕方ない人は、神の平安による保護を得るので、確信をもって人生の使命を達成していくでしょう。

どんなトラブルがあっても、神と共に力強く乗り越えて行くことができます。

また、例えそうでなかったしても、神の平安によって守られていることを知っていけば、人生が必ず好転していきます。

この神の平安によって守られていることを知って生きるのと、そうでないのとのどちらがいいでしょうか?

私たちはどちらかを選ぶことができます。

この神との関係からくる心の安心をいただいてから、次にどうしようかを考えてみてはいかがでしょうか?


Good News Bizディレクター 藤澤真弘
恥を捨てる
2013年1月21日
過去の失敗、人間関係のトラブル、容姿や能力、育った環境、失恋など、私たちはいろいろなことに恥を感じます。

恥は私たちから自信を奪い、私たちの行動を萎縮させ、私たちの可能性を小さくするものです。

聖書では恥についてこう書かれています。


恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたがたは辱めを受けないから。あなたは自分の若かった頃の恥を忘れ、やもめの時代のそしりをもう思い出さない。
イザヤ54:9



聖書には、恥じてはいけない、あなたの過去の恥を思い出してはいけないし、それができると書いてあります。

聖書はいつもポジティブな言葉を私たちに語ります。

なぜそんなポジティブなことを言えるのか。

それは、私たちの恥が強さへと変わるという神様の約束があるからです。


しかし、主は「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで弱さを誇りましょう。
2コリント12:9



もし、私たちが完璧で非の打ち所がなく、自分に絶対の自信を持っていれば、何も恥じることはないと思います。

しかし、私たち人間は誰も完璧ではありません。

みんなコンプレックスや弱さをもっています。

しかし神様は、私たちの弱さごと愛していて、その弱さを強さに変えてくれる方です。

過去の大きな失敗を恥じている人がいるかもしれません。

しかし、その失敗をした自分にしか励ませない人がいます。

その経験をした自分にしか解決できない問題があります。

また、自分は平凡だとか取り柄がないことを恥じている人がいるかもしれません。

しかし、平凡な人でないと、世の中の大半である平凡な人の模範になって影響を与えることはできません。

人の上に立って仕事をするときに、多くの人の気持ちを知り、情熱を与えて立ち上がらせるには、平凡な心を持っていないとできません。

私たちの人生に失敗や弱さはつきものです。

そして、これから先も避けられないものです。

しかし私たちは、自分にある恥を持ちながら生きていくか、それを捨てて強さに変えて生きていくかの選択をすることができます。

そして神様は、私たちが恥を捨てて強さに変えて生きていくことを保証し、励ましてくれる存在なのです。

私たちが恥を持つとき、私たちの可能性は小さくなっていきます。

しかし、私たちが恥を捨て、強さに変えていくとき、今まで考えもしなかった可能性が広がっていくでしょう。

これは恥を捨てるという私たちの選択に働く、神様の約束であり、神様の法則です。


Life is GIFT
2013年1月11日
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている(人生の)計画はわたし(神様)が知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
エレミヤ29:11



この聖書の言葉は、私たちの人生には神の計画があることを教えています。

そして、私はすべての人に使命や天職があり、またそれを成し遂げるための才能や能力を備えていると信じています。

自分の才能を活かした職業に就く。

運命の人と出会って、幸せな家庭を築く。

人のためになること、役に立つことを大切にする。

これら誰もが抱く願いを実現していく最短ルートは、人生は「ギフト」=神によって「与えられたもの」であり、また同じく「ギフト」=神と共に「与えるもの」であるといことに気づくことからスタートします。

まず大切なことは、私たちの才能、環境、容姿、時間、良い願い、性格、また人生そのものは、神からのギフトとして「神に感謝すること」です。

親が愛している子供に贈り物をするように、神はあなたにとって最良のギフトを愛をもって与えてくれました。

神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。


その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。
ペテロの第一の手紙 4:10



「ちょっと待ってください。自分は人と比べてたいしたことないです」とおっしゃるかもしれません。

また、過去を後悔したり、誰かを責め、とても感謝なんかできない人もいるかもしれません。

幼少のころに聴力、視力、言葉を失ったヘレンケラーは、サリバン先生の助けにより、それらは神から与えられたギフトであると感謝するようになりました。

後に彼女は事業家、政治家として、障害者への福祉や教育に大きな功績を残しました。

もし彼女が他の人と比べていたら、その病気を誰かのせいにしていたら、一生涯を自分の部屋に閉じこもって過ごしたでしょう。

でも、彼女はそのような境遇の中にあっても、神が変わらず愛してくださっていることを受け止めていました。

彼女のように、自分の人生そのものを神からのギフトとして受け止める時、自分らしく今を輝いて生きることが出来ます。

神が与えてくれた人生を、何かによって奪われていませんか?


そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こることはすべて、益となることを知っているのです。
ローマ人への手紙 8:28



Good News Bizディレクター 藤澤真弘
恐れを克服する
2012年12月28日

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」
イザヤ41:10



この聖書の言葉は、私たちが恐れを克服し、人生における困難な状況の中にあっても勝利できることを教えています。

そして、私たちは自分たちがそうなるだけではなく、すべての人が恐れを克服することで、最高の自分に生きることが出来ると信じています。

周りの人の顔を恐れずに、自分の意見をはっきりと言いたい。

プレッシャーにおしつぶされそうになっても、本来の自分の力を出しきりたい。

不治の病など、自分の力ではどうすることも出来ない状況でも、感謝と笑顔で乗り切りたい。

恐れを感じる局面で、誰もがこのように克服していくことを望んでいるでしょう。

それと同時に、望んでいるようにうまくいかない経験もお持ちではないかと思います。

聖書は、神によって恐れを克服「させていただける」とはっきりと教えています。

「させていただく」が鍵ですが、そのために必要なことは、「神を信頼する」ことです。

神を信頼するとは、人の知識や努力だけに頼るのではなく、聖書に書かれた神の言葉を信じ、結果を神におまかせすることです。

遊び心旺盛な子供は、階段を数段のぼってから親の腕の中に飛び込ぶ遊びをよくやります。

成功したら徐々に段数を上げ、より高いところから飛び込もうとします。

神に信頼し、恐れを克服することは、これとよく似ています。

本来、私たちは神によって愛されている存在で、その愛は私たちの過去や現在の状態に決して左右されません。

この神に愛されていることを受け入れる時、私たちは神によって恐れを克服させていただくことが出来ます。

人の知識や努力だけを信頼して恐れを克服していくのと、神に信頼して恐れを克服させていただくのと、みなさんはどちらがいいですか?


「完全な愛は、すべての恐れを追い出す。」
1ヨハネ4:18



Good News Bizディレクター 藤澤真弘

わたしはいのちのパンです
2012年11月 6日
イエスは言われた。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
ヨハネ6:35



イエス・キリストは、自分のことを「いのちのパン」と言いました。

そしてそれを口にする者は飢えることがない、と。


「だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」
ヨハネ6:51


いのちのパンであるイエスを食べる。

これは一体どういうことでしょうか?

文字通りイエスの肉を食べれば、もうお腹がへることもなく、もう何も食べなくてもよい
ということでしょうか。

それはちょっと気味が悪い話です。

これをよく理解するために、一つのことを知る必要があります。

この地上では、人の魂は肉体と霊によって生きるということです。

聖書は、人が肉体を持つ存在であると同時に、霊的な存在であると言っています。

私たちは、日々成長し、あるいは老いていく肉体を持ちながら生きています。

これは誰の目にも明らかです。

そして、人間は霊的な存在でもあるのです。

「霊的な存在」とは、人間が単なる肉体、物質や原子だけで成り立っているわけではない、ということです。

目には見えない、数字には表せない、理屈で説明できない、超自然的な存在というわけです。

なぜそういう存在であるかというと、何より神が霊的な存在だからです。

人間は、その霊的な存在である神に似せて創造されました。

神は土地のちりで人を形造り(肉体によるいのち)、「いのちの息」(霊によるいのち)を吹き込むことで人を人たらしめたのです。

聖書にこう書いてある通りです。


神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで人は生きものとなった。 
創世記2:7



イエスに戻ります。

イエスがここで言っている「いのちのパン」というのは、イエスが私たちの霊にとって食べ物である、ということです。

イエスは、私たちの霊にとっての最高の食べ物です。

なぜなら、聖書に書いてあるようにイエスは神だからです。

もともと霊的でもある私たちは、肉体が欲する食べ物と同時に、霊が欲する霊的な食べ物が必要です。

その霊的な食べ物は、先の創世記に書いてある通り、神から来ます。

つまり人は、本来神を抜きにしては生きていくことができません。

肉体のために食料が必要なように、霊的なエネルギーの源とも言うべき神とつながっていなくては、飢え死にしてしまうのです。

悲しいことに、アダムとエバがエデンを追い出されてしまった時から、私たちと神との間には隔たりができてしまいました。

神と遠く離れてしまったために、私たちの原動力とも言うべき霊の食料、霊的なエネルギーが入ってこなくなってしまいました。

結果、いくら肉体が満腹になっても、霊的には飢えたままです。

神以外ではそれを満たすことができないのです。

「いのちのパン」を食べる。それは、イエスを自分の心に取り込むということです。

それは、イエスとともに生きるということ。

それは、イエスによって生きるということ。

イエスのいのちが自分のいのちになるということです。

神であるイエスが、あなたのうちに生きるのです。

それは、永遠のいのちとなります。

肉体は滅びます。

でも、私たちの霊はいつまでも生きます。

イエスのパンを食べると霊が養なわれ、豊かなエネルギーが注がれます。

肉体と霊によって生きる。

それこそ、神が最高傑作として造った私たちの本来の姿です。

その時、あなたの本当のいのちが、鼓動をはじめます。


この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ヨハネ1:4



国際ナビゲーター 
鈴木 陽一