預言者のヨナは、神様から、ニネベと言う町に行って、神様の前に悔い改めるように叫びなさい、と言われました。
(預言者とは、神の言葉を伝える者。予言とは異なります。)
でも、ヨナはそれを無視して、タルシシュと言う町に向かいました。
ヨナがいた所から、ニネベは内陸部。
タルシシュに行こうとしてヨナは船に乗ったわけですから、全く反対方向に向かったわけです。
「いい根性してるな~」とか思いながらも、私は実は、ヨナの気持ちが少しわかるような気がするのです。
ニネベと言うのは、当時のアッシリア帝国の首都で、そこに行くというのは、自分の愛する国を征服し、自分の神様を冒涜し、自分の同国人を大量に捕虜として連れ去った国のど真ん中に行くことなのです。
ただ行くだけでなく、滅びないように警告しに行かなければいけないのです。
正直言って、私だったら、「まあ、滅びればいいじゃん。」とか思ってしまうわけです。
ヨナが実際にそのように思ったかはわかりません。
けれども、とにかく、ニネベに行くつもりはなかった。
そこで神様は嵐を起こしました。
海は大荒れに荒れて、船は沈みそうになりました。
結局ヨナは、自分がそのまま乗っていると、船に乗っている他の人たちも道連れにしてしまうことがわかり、自分を海に投げ入れてもらいます。
そして、神様は、大きな魚にヨナを飲みこませ、ヨナはその魚の腹の中で三日三晩過ごします。
ここで、話しが終わってしまうと、「神様の言うことには従わなければいけない」、と言う話になるのですが、ヨナの話はここでまだ終わらないのです。
ヨナは、ニネベに行って、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と神様の裁きの警告をします。
それを聞いた、ニネベの人達は、なんと、あっさり悔い改めてしまったのです。
それも、王様から、身分の低い人まで。
神様はそれを見て、裁きを下すのをやめました。
ここで話しが終わってしまうと、「悔い改めるのは良いことだ」とかいう話しになるでしょう。
また、神様がちょっときまぐれに思えちゃったりもするかもしれません。
ところが、まだここでも話は終わらないのです。
ヨナは機嫌をそこねました。
こんなに簡単に彼らが悔い改めて、神様が裁きを思い直すんだったら、何で自分はあそこまで苦労しなきゃいけなかったんだ、というのです。
で、彼は、神様の前に思いっきりすねました。
3歳児のようにすねました。
ふてくされて寝ていると、神様は、とうごま、という植物を生えさせ、その葉がふて寝しているヨナの上に覆うようにされました。
強い太陽から丁度よい影ができて、すねていたヨナも、機嫌が良くなりました。
ところが、それから、おちゃめな神様は虫を送り込み、その虫がその植物を食べて枯らしてしまったので、ヨナは、また照りつく太陽の下に戻ったのです。
ヨナは、またすねました。
ここで、神様の言いたかったことが登場します。
ヨナ記は、この神様の言葉でその幕を閉じます。
「あなたは、自分で骨折ったわけでもなく、自分で育てたわけでもなく、一夜で生え、一夜で枯れてしまったこのつる草を惜しんでいる。
それなら、わたしは、それ以上にこの大都市ニネベに住んでいる12万余りの何もわからない人々と家畜を惜しまずにいられようか。」
これが神様の心です。
神様は、自分に逆らうものを容赦なく裁いて喜んでいる方ではなく、一人一人のことを本当に大切に思っているんです。
誰が死ぬのも喜ばないのです。
エゼキエル書でも神様はこう言っています。
「私は悪者の死を喜ぶだろうか。
彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか?
・・・わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて、生きよ。」
ひろこ

イエスは、必死に願い行動する人に、手を差し伸べてくれます。
信じる心に突き動かされた必死な行動に、神は必ず報いてくれる方であることを聖書は約束しています。
次のようなエピソードが聖書に記されています(マルコ2:1-12)。
イエスがカペナウムという町に滞在していることが知れ渡った時、一人の中風に苦しむ人が、四人の男に担がれて、イエスの元に来ました。
イエスは病気を直すことができるという噂が、辺りに広まっていたからです。
四人は、イエスの前に中風の人を連れて行くことができれば、病が癒されるのではないかという希望を抱きました。
床のまま担いでイエスのところに運んだぐらいですから、四人にとって、この人がとても大切な人であったことが伺えます。
さて、実際にイエスの元に到着すると、あたりは人でごった返しています。
民衆はとても家に入りきる人数では収まらず、戸口のところまですきまもないほどです。
中風の人を担いできた四人は、驚き、失望したかもしれません。
どれだけ待てばイエスに会えるのだろう。
こんなにたくさん人がいては、いつまでも会えないのではないか。
せっかく5人でこここまでやってきたのに・・・。
そこで彼らはどうしたか。
列に並んで順番待ちをすることでも、民衆をかき分けて強引にイエスの元に病人を連れて行くことでもありませんでした。
なんと四人は、病人を担いで、その家の屋根にのぼり、イエスがいるあたりの屋根を剥がして、穴をあけて、そのから中風の人を寝かせたまま吊り下ろしたのです!
そしてイエスのそばに近寄ることに成功した中風の人は、イエスのことばで癒され、自分の足で歩いて帰ることができました。
病人を担いだ四人の人の圧倒的な行動力にまず驚かされます。
他人の家の屋根に上って、屋根を剥がして病人を吊下ろすという発想は、普通はなかなか出るものではありません。
彼らの一見無謀とも言える行動は、どこから来たのでしょうか。
それは、信仰でした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
(マルコ2:5)
イエスは、5人の行動の中に、信仰を見ました。
熱意や大胆な行動、言葉ではなく、信仰を見ました。
なぜここでイエスは「信仰を見」たのでしょうか。
イエスが言う「信仰」とはどういうことでしょうか?
信仰を理解する助けになる一つの聖書箇所があります。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
(ヘブル11:1)
つまり信仰は、「希望を確信させるもの」、と聖書は言っています。
5人は希望を抱いていました。
それは単なる希望ではなく、確信となって大胆な行動へとつながっていきました。
それはやがて信仰となり、イエスはその彼らの信仰を見て、彼らの願いが叶えられました。
何かを必死に求めて行動するとき、心にイエス・キリストを迎えましょう。
イエスなら何とかしてくれる!
その希望が確信に近づく時、神はあなたの内に信仰を見ます。
そしてその信仰によって、神は偉大なわざを私たちの身に成し遂げてくれるのです。
国際ナビゲーター
鈴木 陽一

「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」
あなたは神に何と答えるでしょうか?
この問いにすぐに答えられる準備ができているでしょうか?
イスラエルの国王ソロモン。
約3000年前に生きたこの男こそ、神の究極とも言える問いを尋ねられた人物です。
彼は若くして父親であるダビデの跡を継ぎ、イスラエルの三代目の王となりました。
父ダビデは極めて偉大な王でした。
神に心から従い、神にも民にも愛されて、強大な王国の礎を築きました。
幼い息子が、その大きすぎる父の背中と自分を較べて落胆したことは一度や二度ではなかったでしょう。
ソロモンは王となった当初、自分がまだまだ未熟な者であり、大勢の民を率いる器であるとは言い難いことを痛感していました。
ソロモンは神の問いにこう答えました。
わが神、主よ。
今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。
しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。
しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。
さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。
(1列王記3:7-9)
ソロモンは自分の至らなさを知り、国王として何が求められているかを知っていました。
この願いは神の御心にかなったものとなり、現実となりました。
神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。
(1列王記4:29)
知恵を得たソロモン王とその後のイスラエル王国の栄華が、とてつもないものとなったことが聖書に記されています。
ソロモンの願いは、自分のためではなく、他の人のため、社会全体のためのものでした。
彼が願うところは、自分の財産や地位などではなく、イスラエル王国とその民のさらなる繁栄のためであったのです。
この点に、大いに学ぶことができます。
「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」
世界中の金銀財宝に不老不死のからだ...。
私たちはついそんなものを求めてしまいそうです。
しかしソロモンはそうではありませんでした。
自分のことよりも神の王国とその民を第一に考えました。
神はその願いを叶えたばかりか、こうも約束しました。
「そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。」
(1列王記3:13)
結局ソロモンは、誰よりも豊かな知恵を得た上に、富と誉れをも与えられたのです。
これは注目すべき神の偉大な約束です。
あなたは何を神に求めますか?
自分のためではなく、他の人のために。
小さなことではなく、偉大な目的のために。
そして神のために。
あなたが願い、世に成したいことは何でしょうか。
神はいま、私たち自身に語りかけています。
「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」
富や誉れは願わずとも与えられます。
あなたは、神に何と答えますか?
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。
(ルカ11:9)
国際ナビゲーター
鈴木 陽一

むかしむかし、サマリヤ(今のパレスチナの一地方)でひどいききんがありました。
ききんに加えて、敵軍によって町が包囲されていたことが、最悪の状況に拍車をかけました。
町ではなんと、ろばの頭や鳩のふんが売られるようになり、近所の母親たちが共謀して互いの子どもを煮て食べるほど、おぞましい有り様でした。
まさにこの世の地獄とも言うべき状況の中で、神のことばがエリシャという預言者に下りました。
エリシャは言った。
「主のことばを聞きなさい。
主はこう仰せられる。
『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
(2列王記7:1)
1セアは7.6リットルです。
1シェケルは11.4グラムで、ここでは銀のことを指しています。
大ききんの最中、1シェケルの銀でそれほどの上質の小麦粉が売られるということは全く考えられないことでした。
なぜなら、売買されていたろばの頭は銀80シェケル、鳩のふんでさえ銀5シェケルの値がつくほどだったからです。
鳩のふんでさえ5シェケルもするのに、そんなにたくさんの小麦粉が1シェケルで!?
その時、王に付き従っている者が言いました。
「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」
(2列王記7:2)
「何をバカなことを」というまるで相手にしていないような反応です。
預言者エリシャはすかさず言い返しました。
「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
(2 列王記7:2)
結局こうなりました。
不思議ないきさつで、町を包囲していた敵の陣営のたくさんの食べ物、武具、財産が手に入りました。
ついには神のことば通り、サマリヤの門で大麦、小麦が1シェケルで売られるようになったのです。
神のことばが実現しました。
王の付き人は、門に押し掛けるたくさんの民衆に踏みつけられ、死んでしまいました。
この預言もまた、現実のものとなりました。
神のことばを軽く受け止め、信じて期待することのできなかった一人の人間の末路がここに描かれています。
神は私たちのすべての必要知り、偉大な計画をお持ちです。
その計画があらゆる方法によって、現実のものになろうとしています。
それは、時に私たちの予想や理解を大きく超えたものであるかもしれません。
その時に、あなたはどう反応しますか?
「まさかそんなことあるわけが」と一蹴することも、主のことばに真摯に耳を傾けることもできます。
王の付き人と対照の例として、イエスの母マリヤの信仰に学ぶことができます。
まだ男性を知らないマリヤの前に、御使いが現れ、イエスを身ごもっていることを伝えました。
マリヤは言った。
「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
(ルカ1:38)
どうか主のことばが実現しますように。
私たちはこう祈ることができます。
そして事実、神のことばは成就するのです。
聖書には、神の偉大な約束がいくつも記されています。
その一つ一つの神の約束が実現することを信じて、期待して祈りましょう。
神にとって不可能なことは一つもありません。
(ルカ1:37)
国際ナビゲーター
鈴木 陽一

先週、アメリカのコロラド州から、フロリダ州までの長いドライブに友人と繰り出しました。
距離にしてほぼ3050km。止まらずに走り続けて31時間ほどの道のりです。
つくづく、話していて疲れる友達じゃなくてよかった、と思いました。
(相手も私についてそう思ってくれてるといいのですが...)
ここまで続けて一緒にいると、話題も途切れるものです。
どういったいきさつかは覚えていないのですが、気がついたら、日本のTV番組「水戸黄門」の説明をしていました。
友人はアメリカ人で、日本文化に全く触れたことのない人ですから、江戸時代の日本の政治体制から始めて、各エピソードで起こるパターンの説明を延々としました。
日本文化になじみのない人に、黄門様が一般人のなりをして、平民の間に入っていくということがどんな意味を持つのか説明するのは至難の業です。
どう説明したものかと葛藤する中で、イエス・キリストの例を挙げました。
よくよく考えてみると、イエス・キリストと水戸黄門の間には、共通点があるような気がするのです。
「御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、全て御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
(コロサイ1:15)
すべてのものより先に存在し、すべてのものを造られたお方が、庶民ことを気にかけ、庶民の姿をとって、庶民の間に住んでくださった。
そして、庶民の苦しみを目で見るだけでなく、一緒に体験して下さった。
「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7)
水戸黄門みたいだと思いませんか?
ただ、キリストは、危機の瞬間で、水戸黄門のように、印籠を取り出しません。
福音書で、キリストが逮捕されて、裁判にかけられている箇所を読むとき、私は、ついつい、「印籠をだせばいいのに」と思ってしまうのです。
水戸黄門だったら、十字架にかけられそうになった時に、助さん、角さんが出てきて、印籠を取り出し、みんなそこでひざまずいて、ハッピーエンドになります。
助さん角さんも危ない時には、風車の弥七が出てきてくれます。
「・・・キリストは人としての性質をもってあらわれ、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
(ピリピ2:7,8)
一方、キリストは、裁判にかけられた時にも、また、十字架の上でも切り札の「神様札」を出さずに、死を身に受けます。
誰かが罪の罰を受けなければいけないからです。
キリストが十字架の上でしたことは、善人も悪人も含め、すべての人の罪を背負い、その罰を一挙に引き受けたことだったのです。彼はたった一人で死にました。
私達が体験する、この世の闇、罪の汚さ、人間であることから課せられる制限、恥辱、孤独、拒絶、等々を、一人の人としてその身に受けてくれました。
でも、そこで終わりではありません。預言で伝えられていた通り、キリストは、3日後に死からよみがえりました。
つまり、死を通った後で、ついに印籠を取り出したのです。この印籠で、キリストは、神の絶対的な力と権威をこの世に表しました。
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をおあたえになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえらるためです。」
(ピリピ2:8-11)
毎回水戸黄門のエピソードの終わりでは、黄門様が「ふぉ、ふぉ、ふぉ・・!」と笑いながら、旅を続けます。
そして、黄門様によって助けられた人々は、微笑みの内に黄門様を見送りながら、それぞれの場所で生活を続けます。
黄門様がしてくれたことを心に留め、感謝しながら、また、さらなる正義を望みながら。
TBSの水戸黄門のサイトを見たら、第43部と書いてありました。1969年から始まって全部で1205話になります。驚くべきに毎回毎回同じパターンのスト―リが繰り返されます。
でも、不思議なことに飽きません。日本人はこのストーリーラインが好きなんでしょうね。
私達の中に、「身分の高い、絶対的な権威をもった方が、私達の間に住んでくださり、私達の苦しみを理解してくださり、悪に打ち勝って、正義をもたらして下さる」ことへの強い思いがあるのではないでしょうか?
「ひとりの子が私達のために生まれる。主権はその方にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今よりとこしえまで。」
(イザヤ9:6)
その名はイエス・キリスト。
ひろこ






































