聖書にはいくつも不思議な話がありますが、中でもとりわけ不思議なのが旧約聖書の『士師記』にあります。
この時代、周囲の敵から国を守るためイスラエルは神に選ばれたリーダー、士師が治めていました。
そのリーダーのひとりがエフタです。
エフタについて聖書からわかることは、1)勇敢な戦士だった 2)娼婦の息子だった(士師記11:1)ことです。
当時イスラエルはアモン人(おそらくヨルダンの首都アンマンと関係のある民族でしょう)から攻撃を受けており、自分たちを救ってくれる強力なリーダーを求めていました。
そこに現れたのがエフタです。
しかしエフタは苦い思いを抱いていました。
彼の腹違いの兄たちから、娼婦の子どもだというのでいじめられていたのです。
「お前の相続分はない」(11:2)と言われていました。
しかも、家族だけでなくイスラエルのリーダー達もエフタを憎んでおり、家族の家を追い出されたのです。
自分が生まれる前の出来事のせいで憎まれたり差別されたりするというのは、なんと理不尽なことでしょう。
実際今日でも、親が正式に結婚していないこと、言葉のなまり、出身地、肌の色など本人がコントロールできない理由で差別を経験する人は少なくありません。
残念ながら世界は差別や偏見が満ちています(私も外国人であるという理由で日本で差別を経験したことが何回かあります)。
人間の目からエフタは見下されていました。
しかし神は決して彼を忘れず、イスラエルを救うためにエフタを用いたのです。
彼は力強いリーダー、戦士となっただけではなく、人々を神の元へと連れ戻すというすばらしい働きをしました。
自分がコントロールできないことで、誰かからから軽蔑されたことがありますか? 差別されたことがありますか?
この世で、人生は必ずしも公平でも公正でもありません。
しかしこの世以上のものがあるというのは「グッドニューズ」です。
神はあなたをありのままで受け入れ、決して差別せず、愛しておられます。
そして、エフタに対してそうであったように、想像を超える大きな計画をあなたのために持っておられるのです。
神に期待しましょう。
ジェフ・ディーン

光と闇を創り、山を造り、川を造り、動物を造りました。
これらのどれひとつとして、神が存在するために必要なものではありませんでした。
すべては人のために造られ、人がそれを楽しみ管理するようにとされたのです。
そして、神自身は休みを必要としなかったのに人のために休みの日を作りました。
そして神は1本の木を造りました。
「善と悪の知識の木」です。
それは特別なもので、実を食べることが禁じられていました。
人がその実を食べたら「必ず死ぬ」(創世記2:17)と神は宣言しました。
しかしご存知のとおり、アダムとエバはその禁をを破り木の実を食べてしまいます。
いったい神はなぜ「禁じられた木」を作ったのでしょう。
試すためでしょうか。
園にこの木が存在しない方がずっと良かったのではないでしょうか。
人に「必ず」死をもたらす木をなぜ造ったのでしょう。
実はここに神の愛が表されているのです。
神は人に「神に従うか、従わないか」という選択肢を与えました。
もし禁じられた木の実がなければ神に「従う」ことも「従わない」こともできません。
神は人に選び取る自由を与えたかったのです。それが結局は悪いほうを選ぶことになったとしてもです。
選択の自由を与えられて初めて、人は神に従うことを選ぶことできます。
もちろん従わない方を選ぶこともできます。
それでも神は人に選ぶ自由、愛する自由を与えたかったのです。
神がこの大きなリスクをとったのは、私たちと愛の関係を持ちたかったからです。
自由な意思で神を選んだ人々と関係を結びたかったのです。
ですからあなたには神を選ぶ/選ばない自由があります。
さあ、どちらを選びますか。
ジェフ・ディーン

それは「神は光であり神には闇がまったくない」(1:5-7)からです。
光の中を歩くのがよい、ということには多くの人が同意してくれると思いますが、具体的には何を意味するのでしょうか。
同様に「神は光です」というのは好感が持てますが、いったいどういうことなのでしょう。
漠然としてわかりにくいコンセプトです。
しかし、著者のヨハネにとって「光の中を歩く」ことは実際的な行動でした。
自分は光の中を歩いているといっても「兄弟を憎んでいるなら」闇の中にいるのです、と教えました。
言いかえれば「兄弟を愛するなら」光の中を歩いていることになります(2:9-10)。
兄弟とはもちろん血縁関係のある家族のことではありません。
私たちは職場の、学校の、スポーツ仲間の、近所の兄弟や姉妹にどんな感情を抱いているでしょう。
これによって、私たちが光にいるか闇にいるかがわかるのです。
神はどうして私たちが光の中を歩いているかどうかを気にするのでしょう。
ヨハネは「闇と光について書いたのは、私たちが神と交わりを持ち、私たちの喜びが満ちあふれるためだ」といっています。
神は私たちが互いによい関係を持ち、また神とよい関係を持って完全な喜びを持つことを望んでいます。
関係―relationship これが光の中を歩く鍵であり神が大切にしていることなのです。
ジェフ・ディーン

ある日2人は神への捧げ物をします。
カインは農夫だったので穀物を捧げ、羊飼いだったアベルは羊を捧げました(創世記4:3)
ところが、おかしなことが起こります。神はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの物を拒絶するのです。
さらに悪いことに、神は理由を全く説明してくれませんでした。
あなたが誰かにプレゼントをしようとしたのに突っ返され、その理由も教えてもらえないという状況を考えてみてください。
神はただカインは受け入れられるために「正しいことをするべきだ」としか言いませんでした。
カインはこの神の扱いに怒り狂い、弟を殺してしまいます。
神はなぜカインの贈り物を拒絶したのでしょう。
これが理解できれば、神がカインから何を望み、私たちから何を望んでいるかを知る助けになります。
新約聖書では「信仰によって」アベルはカインより「すぐれた捧げ物をささげた」とあります。
そして、信仰によってアベルは「正しい人とみなされた」というのは「信仰がなければ、神に喜ばれることはできないからです」(ヘブライ人への手紙11:4、6)
カインの捧げ物は良かったかもしかったかもしれませんが、信仰とともには捧げられなかったのです。
神は信仰ぬきの「捧げ物」、「多額の献金」、「毎週の教会出席」やそれ以外の何物をも喜びません。
アベルの捧げ物をすぐれたものにしたのは、物そのものではなく、捧げ主の信仰だったのです。
神は今日、私やあなたの信仰を求めています。
では信仰とは何でしょうか。
「見ないものを確信し」「神の存在を信じ」「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じ」ることです(ヘブライ11:1、6)。
神を捜し求めれば、神を見つけるという報いを受けることができます。
そしてそのことを神は喜びます。
そのことでアベルと同様あなたは神に「正しい人」とみなされます。
神があなたに望んでいるのは、お金でも時間でもなく、あなた自身なのです。
ジェフ ディーン

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」(マルコ7:20)
これは、キリストの言葉です。
この言葉の後に、彼は人の内側(心)から出てくるものをあげます:
悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ。
私たちの心の中は、なんと多くの汚いドロドロしたもので満ちているでしょうか。
上手に表面を繕っても、もし心がこのようなもので満たされ続けていると、それは気づかぬうちに表に出てきます。
私たちの心の中の状態は、私たちの態度となり、私たちのつくり出す空気となって現れるからです。
でも、放っておくと悪いものばかり湧き出てくる私たちの心。
どうすればいいのでしょうか。
どのようにすれば、私たちの心は聖く保たれ、そこからポジティブなものが生まれるのでしょうか。
その秘訣は、自分の思いや考え、自分のうちから出るものではなく、神のことば(聖書)で心を満たすことです。
神のことばを日々読み込み、それを中心に生きる生活をするとき、私たちの心の中にそのことばが植え付けられ、そして植え付けられたことばが、私たちの態度、つくりだす空気を変えていくのです。
そしてそれを見た周りの人々が、「この人には何かある」と悟るのです。
私たちは、自分のうちを常に点検し、調べていく必要があります。
昨日はよくても今日はよいとは限らないからです。
毎日私たちのうちからは、悪いものが出続けているからです。
ですから、日々、神のことばに触れ、自分の汚いものを覆ってもらう。
自分のうちから出てくるものではなく、神のことばで心を満たしていきましょう。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。
(箴言4:23)
松本務














