人の望むものは人の変わらぬ愛である。(箴言19・22)
この聖書の言葉は今から2000年前以上前に書かれたものです。聖書とはなんと人間の核心をつく深いものでしょうか。
人間の必要は、どんなに時代が進んでも変わらないことがわかります。
どんなに新しい物がこの世で発明され、暮らしが便利になり、新しい価値観や哲学が生まれたとしても、人は結局、誰かに「愛されたい」のではないでしょうか?
しかもその愛はどんなことがあっても「変わらぬ愛」であって欲しいものです。
そんな愛がはたしてあるのでしょうか?
ドラマや小説では、あるかもしれませんが、私達の周りの現実の世界ではどうでしょうか?
「コロコロ変わる愛」で満ちているかもしれません。
そもそも愛って何でしょうか?
本物の愛を知らなければ、本当の意味で私達は人を愛する事なんて、できないのではないでしょうか?
聖書の中にこのような言葉があります。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ 4・10)
「なだめの供え物としての御子」とはイエスキリストの十字架の事を表しています。
私たちは「自分の夫や妻や恋人、子供達、友人を変わらず愛してゆきたい」と思いますが、しかし自分の都合が悪くなるとコロコロ気持ちが変わってしまうものです。
そのような自己中心的な私たちの罪の性質すべてを解決する為にイエス・キリストはみずから進んで、私達の身代わりとなって十字架に掛かってくださいました。
イエスキリストの十字架は
どんな人間をも受け入れる「無条件の愛」であり、
私たちの身代わりとなる「自己犠牲の愛」であり、
私たちの罪を完全に「赦す愛」です。
このキリストの十字架の愛を私たちの心に受け入れるとき、心に大きな変化が生まれます。
そして私たちは本当の意味で人を愛する事ができるのです。






































