現在のトルコ中央部に、ガラテヤという地方があります。
イエス・キリストが地上を去った後、そのイエスの救いを広める弟子たちの働きによって、このガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれました。
それからしばらくたった後、これらの教会ではある重大な問題が起きていました。
重大な問題、それは、私たちがイエス・キリストを受け入れることで得られる救いに、本来は必要無いはずの余計なしがらみが加えられ、人々がその誤った考えに流されてしまっていたことです。
聖書では、私たちがイエス・キリストを受け入れることで神のもとに行くことができ、永遠のいのちを得ることができると言っています。
私たちが何か良い行いをすることでその報いを受けるというのではありません。
「行い」ではなく、「信じることによって」です。
ガラテヤの人々が間違ったのはここでした。
一度は理解したものの、彼らは再び自分たちの行いを重視しはじめました。
当時、キリストを受け入れながらも、古くからの慣習や戒めを捨て切れずにいた一派が存在し、なおそれを頑なに守ることを勧め、人々を扇動していたのです。
イエス・キリストは、当時の宗教指導者達を「偽善者」として、過剰なまでに批判しました。
彼らがいつのまにか神よりも、人間が作ったいくつもの戒めを頑なに守ることだけに集中してしまっていたからです。
純粋に神を礼拝するという本来あるべき姿に立ち返るよう、キリストは訴え続けました。
聖書は言っています。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ人への手紙3・1)
キリストがもたらしてくれたものは、自由と解放です。
再び以前のような奴隷のくびき、つまりそこに神への心が存在しない慣習や戒めに縛られないように、というガラテヤ人への訓戒がここにあります。
キリストを信じる者には自由があります。
そしてこの自由は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という偉大な目的に向かって行使されるべきである、と聖書には書いてあります。
私たちは、自らの行いによってその報いを期待してしまったり、その行いを他者に求め、あるいはその見えるもので相手を評価したりしてしまいがちです。
しかし、神の目からは、何よりもイエス・キリストを信じる信仰によって私たちの正しさが認められるのです。
自らの行いに頼るのではなくイエス・キリストに頼るとき、私たちの道がまっすぐにされます。
しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。(ガラテヤ人への手紙2・16)
国際ナビゲーター 鈴木陽一






































