ヨハネ1章42節から49節に出てくるナタナエルという人の話です。
それは日差しの強い日でした。
漁から帰って来たナタナエルは、シャワーを浴び、昼食をとり、彼の"木"に向かいます。
彼が聖書を学ぶいちじくの木。彼の家の目の前にそびえ立つ大きな木。
枝が幾重にも重なり大きな陰を作っています。
熱い太陽の日から隠れられ、周りの人からも隠れられるその陰の下は、ナタナエルにとって聖書を学ぶ絶好の場所でした。
当時その地域の人達の間では、聖書を学ぶ場所として、いちじくの木かぶどうの木の下を選ぶことが一般的でした。
彼はひとつのいちじくの木を自分の祈りの場所として選んだのです。
それはナタナエルにとって非常に重要な場所でした。
ナタナエルは、ガリラヤのカナという地域に住んでいました。
彼は漁師でした。彼の父も漁師、その父も漁師。
彼は幼いころから漁をしながら育って来たのです。
漁にかけてはプロ中のプロ。魚のことは何でも知っているような男でした。
しかし同時に彼は聖書も熱心に学んでいました。
彼の一日は、こんなふうに始まります:朝4時頃、まだ暗いうちに起き出し、漁に出ます。10時頃まで魚を捕り、帰って来てから、いちじくの木に向かい、そして数時間、その木の下で静まって時を過ごすのです。
聖書を学び、瞑想し、祈ります。そこは彼にとって"聖なる場所"なのです。
そしてそこで、その時間の締めくくりとして、ナタナエルが毎日欠かさずにおこなっていたことがありました。それは、一つの祈りでした。
それは、王が来ることを待ち望む祈り。
救い主がこの地にやってきて、彼の王国を建国するのを願う祈り。
その祈りが彼の毎日の祈りとなり、彼の切実な願いとなっていました。
その日もいつもと同じです。仕事が終わり、"その木"のところまでやってきたナタナエル。ひざまずき、静かな祈りの中、神との交わりの時を持ちました。
仕事のことを祈り、自分の内面の葛藤を話し、そしてこれからの人生のことを祈ります。
聖書を読み、その箇所を熟考する時間もしっかりとりました。
そしてこの時間も、いつものお決まりの祈りで締めくくるんですね。
神が聖書で約束して下さっている救い主が早く来るように。
聖書を読み込んでいた彼は確信していたのです。
神がこのメシアを送って下さる日が近いということを。
神はもうじきその救い主をこの地に送り、この国を立て直して下さるのだと。
その日の午後、彼が翌日の漁のために網を繕っている時、友達のピリポが走って彼の方に向かってくるのを見ました。
ピリピは興奮した様子で近づいて来て言います:「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
ナタナエルは当惑してしまいます。"何を言っているのだこいつは。この男は、聖書を読んだことが無いのだろうか"って。
聖書を読み込んでいたナタナエルは知っていたのです。
ナザレという地名は聖書の中にただの一度も出てこないことを。ナザレは、全人口が2000人にも満たない小さな町なのです。そこで彼はポリポに答えて言います:「ナザレから何の良いものが出るだろう。」
しかしピリポはナタナエルをがっしりとつかみ、緊迫した様子で言うのです:「来て、そして、見なさい。」
ナタナエルは立ち止まり、考えました。
そして彼の友のその緊迫した様子を見て、一度行って見てみようと決めるのです。
そのピリポが話していた人に近づくやいなや、その人?イエスは、ナタナエルに向かって言います:「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
いきなりそんなことを言われたナタナエルは驚いてしまいます。
何故彼は自分のことを知っているのだろうか。
ピリポが自分のことを話したのだろうか。
それとも彼は自分の両親を知っているのだろうか。
そこでナタナエルは聞きます:「どうして、わたしをご存知なのですか。」
イエスは、ゆっくりナタナエルの目を見て、そして言います:「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
いちじくの木。そのフレーズを聞いた瞬間、ナタナエルの頭の中でピーンと線が通り、すべてのつじつまが合いました。
ナタナエルは知ったのです。
毎日あのいちじくの木の下で自分が会っていた人は、このイエスだったのだと。
いちじくの木の下で自分の祈りを聞いてくれていたのはこの人だったのだと。
イエスこそが自分に聖書を通して語りかけ、今まで人生をガイドし続けてくれた人だったのだと。
そしてもう一つ、彼は知りました。それは、イエスこそ、彼が何年もの間待ち続け、祈り続けて来た方なのだということを。
彼は、メシアなのだということを・・・。
こらえきれなくなったナタナエルは叫びます:「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」














