聖書が紹介する一つの大切な人格的な視点は、「寛容」であることです。それは、心を広く持ち、他者をきびしく咎めたりしないことです。
イエス・キリストはこの寛容を、畑に蒔かれた麦のたとえを用いて説明しました。
ある人が畑に良い麦の種を蒔くと、敵がやって来て麦の中に毒麦を蒔いてしまいました。
やがて麦が実ると毒麦も一緒に現れたので、しもべたちは毒麦を抜き集めようとしますが、主人は、一緒に良い麦まで取ってしまう恐れがあるからと、それを制します。
そして、収穫まで両方ともそのままにしておくように伝えます。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしな
さい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。 (マタイ13・30)
「収穫の時期」は神の裁きが下るこの世の終わりであり、「刈り手」は御使いだとイエスは説明しています。
正しい者も悪い者も、この世の終わりの時に刈り取られ、それぞれ定められた場所に置かれるということを言っています。
人間が自分の目から見て良し悪しを判断することは、神の視点に比べれば、絶対的に正しい視点ではありません。
それぞれの文化や育ってきた背景、置かれている心理状態によって、その判断の基準は変わりますし、また時には人の価値基準そのものが及ばないこともあるかもしれません。
一見毒麦のように見えても、実は神の目に良い麦であることも考えられます。
また、使徒パウロはこう言っています。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 (ローマ12・19-20)
これらの聖書のことばから、ある人や出来事を勝手にさばき、悪いと判断してしまうこと、またそのことに対する復讐は、私たちのすることではなく、神の仕事であるということが分かります。
神がその良し悪しを判断し、必要に応じて復讐しその報いを果たします。
そしてあとから続くことばから分かるように、聖書ではむしろ、敵に施してあげるように勧めています。「目には目を」ではなく、かえって敵に施すことが神に喜ばれることであり、その行為が、神の裁きを増し加えます。
寛容な心を持ち、私たちの一方的な視点から「毒麦」と決めつけてしまわないように気をつけましょう。さばくのは神の仕事です。
私たちはタイミングを待ち、また敵に良い行いをしていくことが期待されています。それが、神が私たちに望んでいることです。
悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12・21)
国際ナビゲーター
鈴木陽一














