聖書と聞くと、文字どおり聖(きよ)い完璧な人物が活躍し、もっともらしい人生の教訓を紹介するような内容に思われますが、案外そうでもありません。
不十分な点のある人ばかりが登場する本と言っても良いでしょう。
聖書の冒頭で、それが表れています。神が造った最初の人アダムの家族に、殺人が起きました。
人類わずか二代目にして、兄が怒りにまかせて弟を殺すという悲しい事態が起きてしまいました。
箱舟の英雄ノアは、箱舟で水難を逃れたあと、お酒に酔い潰れて裸で眠りこけていました。
それを発見して兄弟に知らせた息子ハムを呪い、「他の兄弟たちの奴隷になってしまえ」と言い放ちました。
今なお多大な尊敬を集めるイスラエルの国王ダビデは、優秀な自分の家来の妻があまりに美しいのでその女をめとり、やがて身ごもったことが分かると、その優秀な家来を戦の最前線へ送り、あえて戦死させました。
イエスの弟子であるペテロは、「あなたのためにはいのちも捨てます」と言いながらも、イエスが敵の手に捕らえられた後、おまえはイエスの弟子ではないかという敵の問いを三度も否定しました。
聖書では、このような人間模様がいくつも描かれています。
みな罪深く、欲を出し、自分勝手で、誘惑に負け、臆病な人たちばかりです。
聖書は言っています。
義人はいない。ひとりもいない。 (ローマ3:10)
いつの時代も、非のうちどころのないような人間は存在しないのです。
この事実は、罪と欲を奥底に抱え込んだ私たちに安心を与えます。
結局はみんな腹黒いんだから一緒ではないか、それが人間くささというものだ、と。
しかし聖書では、すべての人間が不十分な人間であるという事実を私たちに提示しつつも、そこに安住することを許していません。
不十分な私たちがどうすべきなのか、そこに光を示してくれています。
その光とは、歴史上、完全に正しい人生を歩んだ男イエス・キリストです。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(1ペテロ2:22)
イエスは、罪の無い完璧な人でした。そのイエスの生き様が、聖書に描かれています。
イエスが人々に何を語り、何を教え、何を成し遂げたのか。
今、イエスのことばが本になったのが、この聖書です。
私たちはこのイエスのことばを今日も手に取り、読み、聞き、学ぶことができます。
私たちは不完全な人間です。
だから、イエスが必要です。
国際ナビゲーター
鈴木陽一






































