神が最初に創造した世界は非常に良いものでしたが、人は生まれながらに罪の性質を受け継いでいます。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、...(ローマ3:23)
神の楽園から追い出された人間は、神の元を離れて、それぞれ自分勝手な生き方をするようになりました。
人は、どこまでいっても自己中心的なものです。子どもでさえ、誰から教えられなくとも嘘をつくようになり、わがままにふるまいます。
それが罪です。
この罪が最初の人アダムに始まり、今日もすべての人に脈々と続いてしまっているのです。
人はこの罪に対して何ができるのでしょうか。
意識しないのに、ふと瞬間わき起こる自己中心的な心をどうすればよいのでしょうか。
ある人は、自分の中にその存在を認めません。
「自分は人に後ろ指をさされるような人間ではありません」
「私は誰にも迷惑をかけないでがんばっている」
世で見られる悪い行い(犯罪)など、自分は一度たりともしたことはない。
毎日まじめに生きている。こういう人たちは、自分が正しい人間であると信じています。
またある人は、なんとなく自分の腹黒さを認めながらも、それが問題であるとは思いません。
「誰だってそういう思いを持っているじゃないか。それが人間というものだ。」
また別の人は、自分の中の罪を認めつつも、逆にそれを挽回するかのように慈善活動に精を出す人、あるいはお金や権力を得ようと一生懸命になり、あるいは厳しい修行によって自らを変えようとする人もいます。
しかし、これらの行いは根本的な解決にはなりません。
前に見たように、私たちの罪は、神のもとを離れてしまったことによって生まれたものでした。
ということは、その解決はシンプルです。
神のもとに戻ることです。
再び神のもとに立ち返り、かつて神の園で暮らしていた時の、愛と平和が満ちたところに身を置くことです。
良い行いやお金、社会的地位も厳しい自己鍛錬も必要ありません。
罪の解決という点では、これらのものは役に立ちません。
自分の罪に向き合おうとしない人を、聖書はこう言っています。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:20)
「光」。
光は、聖書において大変重要な意味を持っています。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4-5)
「この方」というのが、イエス・キリストです。
ここで、ついに人の光、イエス・キリストが登場します。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
実は聖書全体がイエスについて語り、イエスによって私たち人間が神の元に立ち返ることを語っているのです。
自分の罪を隠さずに光であるイエスの前にさらけ出す。
その光を通して、私たちが再び神のもとに引き寄せられるのです。
それが、私たち人間と神との再会の時です。
国際ナビゲーター
鈴木陽一






































