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どこの宗派にも属さず、宗教という形式ではなく、自由でのびのびとした視点で解説しています。
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犠牲を払うということ
2011年2月25日

 いかに小さな犠牲で大きな結果を得るか。

 日本では、多くの人が日夜それを求めながら、模索しながら生きていると思います。

 ビジネスでも勉強でも、その考え方が当たり前の「善」として通っています。

  いいモノ、よい結果は欲しい。

 でもそれを得るための努力や投資はできるだけ最小限に留めておきたい。

 あわよくばただで手に入れたい。

 犠牲なくして手に入れたい。

 いかに頑張らないで、痛い思いしないで、欲しい結果を手に入れられるか。

 そんな思いが宝くじやパチンコの売上を伸ばしているのではないでしょうか。

 楽して自分の欲しい結果ただで手に入る。

 そういうオファーに対して私たちは本当に弱いものだなぁと思います。

 しかし、聖書には「ただで差し上げます」と言われて、「いいえ、お金を出させてください」と言ってのけるなんとも奇妙な二人の人物が登場します。

 最初の人物は、信仰の父と呼ばれるアブラハムです。

 創世記23章で、アブラハムの妻、サラが亡くなったとき、彼女を葬るための墓地を譲ってもらえるようエフロンという人物にアブラハムが頭を下げるという記述が出てきます。

 アブラハムが神に祝福された人だと知っているエフロンは彼に言います:

「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差しあげます。なくなられた方を、葬ってください。」(創世記23:11)

 アブラハムが愛したサラを葬るための最高の場所を、エフロンは、ただでくれると言うのです。

 願ってもない話です。

 しかしアブラハムは凛とした態度で答えます:

 「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお支払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることが出来ます。」(創世記23:13)

 そして結果、アブラハムは言い値の銀400シェケルを支払い、そこに彼の愛する妻を葬ったのです。

 似たような話が、聖書のもう少し後、サムエル記にも出てきます。

 ダビデ王が、主なる神のために祭壇を築きたいと願い、アラウナという人の土地を買いに行ったときのことです。

 自分のところにわざわざやってきた王様の姿にびっくりしたアラウナはダビデ王に言います:「王さま。お気に召す物を取って、おささげください••王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」

しかしダビデ王は、感情高く、声を上げながら言います:

 「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」(サムエル記Ⅱ24:24)


 本当に価値のあるものを得ることに対して、彼らは犠牲を払うことをいといませんでした。

 むしろ喜んで自ら主体的に犠牲を払うことを選びとりました。

 「ただで得るなんて滅相もない、私は代価を払ってそれを得たいのだ。」二人の偉大な人物の荒い息遣いが聞こえてくるようです。

 私たちは、なるべく最小限の犠牲ですむ方法を模索する社会に生きています。

 しかし、本当に自分が望むものに対して、本当に価値があると認めるものに対して、 犠牲を払う気持ちがなくて本当にそれが大切だと感じられるでしょうか。

 私たちが自分で「痛い」と思うような犠牲を払うとき、その対象に対しての愛情はぐんと増し加わるのではないでしょうか。

 自分が本当に大切だと価値を認めたものに対して、犠牲を払うことをいとわない人生。

 うじうじ最低限の犠牲で済むよう工作せず、スパンと大胆に捧げる人生。そういう潔い人生を生きたいものです。

松本務