聖書の中で一番好きな物語に「ヨセフ物語」を挙げる人が多いのではないのでしょうか。
ヤコブの子として生まれ、兄たちに奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれ、濡れ衣を着せられ、投獄させられる。
もうおしまいだ、と思ったらある日いきなりパロに呼び出され、認められ、一夜にしてエジプトのナンバー2になる。
そして自分の元に食料を買いに来た兄たちとの再会と和解。
どん底から頂点へ登りつめていく彼の人生の中に見られる神様の偉大なご計画。
創世記37章から50章までのこのストーリーは息を飲む迫力で、多くの人達を魅了してきました。
文学的な視点や歴史的な視点でこの箇所を読み、解説してくれる本はたくさんあります。
難しく突き詰めても新しい発見がある偉大な物語です。
でもこの物語は、学者たちだけじゃなくて、私たち一読者でも十分楽しめ、発見できることが多くあります。
その中で、今回は1つのシーンを取り上げて、神がヨセフをどのように変えていったかを考えてみたいと思います。
ある日のこと、牢獄にいたヨセフは、同じ監獄に投獄されていたエジプト王の献酌官長の夢を解き明かしてあげます。
一刻も早く牢獄から出たいヨセフはその献酌官長に頼み込んで言います:
「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。」(創世記40:14)
一呼吸の間に「私!私!私!私!」と「私」が4度も登場します。
完全に自分のことで頭がいっぱいの状態です。
しかし、この箇所の最後、23節には、
「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」(40:23)
と書いてあります。
ヨセフはすっかり忘れられてしまったのです。
そして次の章の1節にはこうあります。
「それから2年の後、、、」(41:1)
場面展開で、一気に2年間が経過されていました。
私たち読んでる方としてみれば一瞬ですが、この間ヨセフは一体どんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。
多分最初の数週間は期待に胸いっぱいだったと思います。
献酌官長は解放された。
彼はすぐに自分のことを話してくれるに違いない! そしてパロが私を呼び出してくれるのだ!
しかし1週間が経ち、1ヶ月が経ち、1年間が経ちます。
もう自分はこのまま牢獄の中で過ごすのかもしれない、と思ったかもしれません。
「私」には何も無いのだと気づく日々だったと思います。
しかし転機は突然やってきます。
2年の後、パロは夢を見、解き明かせる者がいなくて困るのです。
そこであの献酌官長がヨセフのことを思い出し、彼が呼び出されます。
パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」(41:15)
ここに、2年の沈黙の後ヨセフが放った最初の一言が記録されています:
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(41:16)
あれだけ「私!」と叫んでいたヨセフ。
2年後に出てくる最初の言葉は、「私ではありません!」でした。
この2年間でヨセフは、自分の人生の主語が、「私」では無く、「主」であると悟ったのです。
私たちも、すぐに自分が!自分を!自分に!と、「私」が出てくるものです。
しかし、本当の主語は「主」であると知る時、私たちの人生は大きく神に用いられる人生になるのではないでしょうか。
主が主語となる人生を生きたいものです。






































