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    <title>Wind Design｜ウィンドデザイン</title>
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    <title>通じ合う思い</title>
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    <published>2012-02-03T02:35:43Z</published>
    <updated>2012-02-03T02:51:35Z</updated>

    <summary>イエス・キリストが、病人を癒したり、奇跡を行うとき、ほとんどの場合、人に「あるこ...</summary>
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        <![CDATA[イエス・キリストが、病人を癒したり、奇跡を行うとき、ほとんどの場合、人に「あること」が、欠かせませんでした。<br /><br />奇跡が起こされる時になくてはならないもの。<br /><br />それは、イエスが奇跡を起こせるという期待、すなわち信頼です。<br /><br />何としてでも、イエスに癒してもらいたい。<br /><br />どうにかしてイエスに触れてもらいたい。<br /><br />イエスならそれができる。<br /><br />治してくれる。<br /><br />何とかしてくれる。<br /><br />そう信じている。<br /><br />私たちの心からの信頼が、イエスの不思議なわざを可能にします。<br /><br />お互いの思いが通じ合った時、奇跡が起きるのです。<br /><br />聖書には、イエスが病人を癒し、悪人を追い出し、足や目の不自由な者が歩き見えるようになった話がたくさん書いてあります。<br /><br />イエスは、病を奇跡で癒す前に、よくこう尋ねました。<br /><br /><b><br />「よくなりたいか。」<br />（ヨハネ5:6）</b><br /><br /><b>「わたしにそんなことができると信じるのか」<br />（マタイ9:28）</b><br /><br /><b>「わたしに何をしてほしいのか。」<br />（マタイ20:32）</b><br /><br /><br />イエスが、質問をするのは、その人が何を必要としているのか分からなかったからでしょうか。<br /><br />誰でも、一目見るだけで、その人の必要としていることは分かるはずです。<br /><br />それでも、あえて尋ねています。<br /><br />私に何をしてほしいのか？<br /><br />本当に私にそれができると信じているか？<br /><br />イエスにそう尋ねられた人々は、口々に言いました。<br /><br />主よ、直してください。<br /><br />あなたは、それができると信じます。<br /><br />どうかこの目をあけてください。<br /><br />そして、奇跡がその身に起きました。<br /><br />私たちとイエスの心が通じあった時に、奇跡が起きるのです。<br /><br />これと全く対照的な出来事も起きました。<br /><br />イエスが自分の生まれ育った町、ナザレに帰ったときのことです。<br /><br />イエスは神の国の福音を伝え始めるまで、地元で大工として暮らしていました。<br /><br />のちに宣教を開始すると、その教えと不思議なわざで有名になりました。<br /><br />多くの弟子や民衆がイエスを慕い、つき従うようになりました。<br /><br />その地方で有名になり、たくさんの尊敬と感謝を集めても、帰郷したイエスに対する人々の反応は、冷やかなものでした。<br /><br />あぁ大工のイエスか、あそこのマリヤの子だろう、といったもので、イエスへの尊敬も、信じる心もありませんでした。<br /><br />その時のイエスの状態が、聖書にこう記されています。<br /><br /><br /><b>それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。<br />（マルコ6：5）</b><br /><br /><br />イエスは、力あるわざを行うことが「できませんでした」。<br /><br />「しなかった」のではありません。<br /><br />ここは大切なポイントです。<br /><br />人々がイエスに望み、期待し、本当に信じたその通りになるという信仰がなければ、イエスは力あるわざを行うことができないのです。<br /><br />イエスと思いが通じ合うことで、イエスの奇跡がなされます。<br /><br />信仰とは神に期待し、信頼することです。<br /><br />そして、信仰によって、奇跡は起きるのです。<br /><br /><br />国際ナビゲーター<br />鈴木　陽一<br />]]>
        
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    <title>神様の心</title>
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    <published>2012-01-27T01:39:52Z</published>
    <updated>2012-01-27T01:43:28Z</updated>

    <summary>今日はヨナ記のお話です。預言者のヨナは、神様から、ニネベと言う町に行って、神様の...</summary>
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        <![CDATA[今日はヨナ記のお話です。<br /><br />預言者のヨナは、神様から、ニネベと言う町に行って、神様の前に悔い改めるように叫びなさい、と言われました。<br /><br />（預言者とは、神の言葉を伝える者。予言とは異なります。）<br /><br />でも、ヨナはそれを無視して、タルシシュと言う町に向かいました。<br /><br />ヨナがいた所から、ニネベは内陸部。<br /><br />タルシシュに行こうとしてヨナは船に乗ったわけですから、全く反対方向に向かったわけです。<br /><br />「いい根性してるな～」とか思いながらも、私は実は、ヨナの気持ちが少しわかるような気がするのです。<br /><br />ニネベと言うのは、当時のアッシリア帝国の首都で、そこに行くというのは、自分の愛する国を征服し、自分の神様を冒涜し、自分の同国人を大量に捕虜として連れ去った国のど真ん中に行くことなのです。<br /><br />ただ行くだけでなく、滅びないように警告しに行かなければいけないのです。<br /><br />正直言って、私だったら、「まあ、滅びればいいじゃん。」とか思ってしまうわけです。<br /><br />ヨナが実際にそのように思ったかはわかりません。<br /><br />けれども、とにかく、ニネベに行くつもりはなかった。<br /><br />そこで神様は嵐を起こしました。<br /><br />海は大荒れに荒れて、船は沈みそうになりました。<br /><br />結局ヨナは、自分がそのまま乗っていると、船に乗っている他の人たちも道連れにしてしまうことがわかり、自分を海に投げ入れてもらいます。<br /><br />そして、神様は、大きな魚にヨナを飲みこませ、ヨナはその魚の腹の中で三日三晩過ごします。<br /><br />ここで、話しが終わってしまうと、「神様の言うことには従わなければいけない」、と言う話になるのですが、ヨナの話はここでまだ終わらないのです。<br /><br />ヨナは、ニネベに行って、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と神様の裁きの警告をします。<br /><br />それを聞いた、ニネベの人達は、なんと、あっさり悔い改めてしまったのです。<br /><br />それも、王様から、身分の低い人まで。<br /><br />神様はそれを見て、裁きを下すのをやめました。<br /><br />ここで話しが終わってしまうと、「悔い改めるのは良いことだ」とかいう話しになるでしょう。<br /><br />また、神様がちょっときまぐれに思えちゃったりもするかもしれません。<br /><br />ところが、まだここでも話は終わらないのです。<br /><br />ヨナは機嫌をそこねました。<br /><br />こんなに簡単に彼らが悔い改めて、神様が裁きを思い直すんだったら、何で自分はあそこまで苦労しなきゃいけなかったんだ、というのです。<br /><br />で、彼は、神様の前に思いっきりすねました。<br /><br />３歳児のようにすねました。<br /><br />ふてくされて寝ていると、神様は、とうごま、という植物を生えさせ、その葉がふて寝しているヨナの上に覆うようにされました。<br /><br />強い太陽から丁度よい影ができて、すねていたヨナも、機嫌が良くなりました。<br /><br />ところが、それから、おちゃめな神様は虫を送り込み、その虫がその植物を食べて枯らしてしまったので、ヨナは、また照りつく太陽の下に戻ったのです。<br /><br />ヨナは、またすねました。<br /><br />ここで、神様の言いたかったことが登場します。<br /><br />ヨナ記は、この神様の言葉でその幕を閉じます。<br /><br />「あなたは、自分で骨折ったわけでもなく、自分で育てたわけでもなく、一夜で生え、一夜で枯れてしまったこのつる草を惜しんでいる。<br /><br />それなら、わたしは、それ以上にこの大都市ニネベに住んでいる１２万余りの何もわからない人々と家畜を惜しまずにいられようか。」<br /><br />これが神様の心です。<br /><br />神様は、自分に逆らうものを容赦なく裁いて喜んでいる方ではなく、一人一人のことを本当に大切に思っているんです。<br /><br />誰が死ぬのも喜ばないのです。<br /><br />エゼキエル書でも神様はこう言っています。<br /><br />「私は悪者の死を喜ぶだろうか。<br /><br />彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか？<br /><br />・・・わたしは、誰が死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて、生きよ。」<br /><br /><br />ひろこ<br />]]>
        
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    <title>イエスが何とかしてくれる</title>
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    <published>2011-11-16T04:40:05Z</published>
    <updated>2011-11-16T04:45:16Z</updated>

    <summary>必死に、何かを求めて行動したことがあるでしょうか。イエスは、必死に願い行動する人...</summary>
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        <![CDATA[必死に、何かを求めて行動したことがあるでしょうか。<br /><br />イエスは、必死に願い行動する人に、手を差し伸べてくれます。<br /><br />信じる心に突き動かされた必死な行動に、神は必ず報いてくれる方であることを聖書は約束しています。<br /><br />次のようなエピソードが聖書に記されています（マルコ2:1-12）。<br /><br />イエスがカペナウムという町に滞在していることが知れ渡った時、一人の中風に苦しむ人が、四人の男に担がれて、イエスの元に来ました。<br /><br />イエスは病気を直すことができるという噂が、辺りに広まっていたからです。<br /><br />四人は、イエスの前に中風の人を連れて行くことができれば、病が癒されるのではないかという希望を抱きました。<br /><br />床のまま担いでイエスのところに運んだぐらいですから、四人にとって、この人がとても大切な人であったことが伺えます。<br /><br />さて、実際にイエスの元に到着すると、あたりは人でごった返しています。<br /><br />民衆はとても家に入りきる人数では収まらず、戸口のところまですきまもないほどです。<br /><br />中風の人を担いできた四人は、驚き、失望したかもしれません。<br /><br />どれだけ待てばイエスに会えるのだろう。<br /><br />こんなにたくさん人がいては、いつまでも会えないのではないか。<br /><br />せっかく５人でこここまでやってきたのに・・・。<br /><br />そこで彼らはどうしたか。<br /><br />列に並んで順番待ちをすることでも、民衆をかき分けて強引にイエスの元に病人を連れて行くことでもありませんでした。<br /><br />なんと四人は、病人を担いで、その家の屋根にのぼり、イエスがいるあたりの屋根を剥がして、穴をあけて、そのから中風の人を寝かせたまま吊り下ろしたのです！<br /><br />そしてイエスのそばに近寄ることに成功した中風の人は、イエスのことばで癒され、自分の足で歩いて帰ることができました。<br /><br />病人を担いだ四人の人の圧倒的な行動力にまず驚かされます。<br /><br />他人の家の屋根に上って、屋根を剥がして病人を吊下ろすという発想は、普通はなかなか出るものではありません。<br /><br />彼らの一見無謀とも言える行動は、どこから来たのでしょうか。<br /><br />それは、信仰でした。<br /><br /><br /><b>イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。<br />（マルコ2:5）</b><br /><br /><br />イエスは、５人の行動の中に、信仰を見ました。<br /><br />熱意や大胆な行動、言葉ではなく、信仰を見ました。<br /><br />なぜここでイエスは「信仰を見」たのでしょうか。<br /><br />イエスが言う「信仰」とはどういうことでしょうか？<br /><br />信仰を理解する助けになる一つの聖書箇所があります。<br /><br /><br /><b>信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。<br />（ヘブル11:1）</b><br /><br /><br />つまり信仰は、「希望を確信させるもの」、と聖書は言っています。<br /><br />５人は希望を抱いていました。<br /><br />それは単なる希望ではなく、確信となって大胆な行動へとつながっていきました。<br /><br />それはやがて信仰となり、イエスはその彼らの信仰を見て、彼らの願いが叶えられました。<br /><br />何かを必死に求めて行動するとき、心にイエス・キリストを迎えましょう。<br /><br />イエスなら何とかしてくれる！<br /><br />その希望が確信に近づく時、神はあなたの内に信仰を見ます。<br /><br />そしてその信仰によって、神は偉大なわざを私たちの身に成し遂げてくれるのです。<br /><br /><br />国際ナビゲーター<br />鈴木　陽一<br />]]>
        
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    <title>いま、神に何を求めるか</title>
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    <published>2011-10-06T01:15:06Z</published>
    <updated>2011-10-06T01:21:22Z</updated>

    <summary>いま、神があなたの目の前に現れました。そしてこう尋ねます。「私に与えて欲しいと思...</summary>
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        <![CDATA[いま、神があなたの目の前に現れました。そしてこう尋ねます。<br /><br />「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」<br /><br />あなたは神に何と答えるでしょうか？<br /><br />この問いにすぐに答えられる準備ができているでしょうか？<br /><br />イスラエルの国王ソロモン。<br /><br />約３０００年前に生きたこの男こそ、神の究極とも言える問いを尋ねられた人物です。<br /><br />彼は若くして父親であるダビデの跡を継ぎ、イスラエルの三代目の王となりました。<br /><br />父ダビデは極めて偉大な王でした。<br /><br />神に心から従い、神にも民にも愛されて、強大な王国の礎を築きました。<br /><br />幼い息子が、その大きすぎる父の背中と自分を較べて落胆したことは一度や二度ではなかったでしょう。<br /><br />ソロモンは王となった当初、自分がまだまだ未熟な者であり、大勢の民を率いる器であるとは言い難いことを痛感していました。<br /><br />ソロモンは神の問いにこう答えました。<br /><br /><br /><b>わが神、主よ。<br />今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。<br />しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。<br />そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。<br />しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。<br />善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。<br />さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。<br />（1列王記3：7-9）</b><br /><br /><br />ソロモンは自分の至らなさを知り、国王として何が求められているかを知っていました。<br /><br />この願いは神の御心にかなったものとなり、現実となりました。<br /><br /><br /><b>神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。<br />（1列王記4：29）</b><br /><br /><br />知恵を得たソロモン王とその後のイスラエル王国の栄華が、とてつもないものとなったことが聖書に記されています。<br /><br />ソロモンの願いは、自分のためではなく、他の人のため、社会全体のためのものでした。<br /><br />彼が願うところは、自分の財産や地位などではなく、イスラエル王国とその民のさらなる繁栄のためであったのです。<br /><br />この点に、大いに学ぶことができます。<br /><br />「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」<br /><br />世界中の金銀財宝に不老不死のからだ...。<br /><br />私たちはついそんなものを求めてしまいそうです。<br /><br />しかしソロモンはそうではありませんでした。<br /><br />自分のことよりも神の王国とその民を第一に考えました。<br /><br />神はその願いを叶えたばかりか、こうも約束しました。<br /><br /><br /><b>「そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。」<br />（1列王記3：13）</b><br /><br /><br />結局ソロモンは、誰よりも豊かな知恵を得た上に、富と誉れをも与えられたのです。<br /><br />これは注目すべき神の偉大な約束です。<br /><br />あなたは何を神に求めますか？<br /><br />自分のためではなく、他の人のために。<br /><br />小さなことではなく、偉大な目的のために。<br /><br />そして神のために。<br /><br />あなたが願い、世に成したいことは何でしょうか。<br /><br />神はいま、私たち自身に語りかけています。<br /><br />「私に与えて欲しいと思うものを、何でも求めなさい。」<br /><br />富や誉れは願わずとも与えられます。<br /><br />あなたは、神に何と答えますか？<br /><br /><br /><b>わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。<br />（ルカ11：9）</b><br /><br /><br /><br />国際ナビゲーター<br />鈴木　陽一<br /><br />]]>
        
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    <title>主のことばが成るように</title>
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    <published>2011-09-08T08:01:40Z</published>
    <updated>2011-09-08T08:09:46Z</updated>

    <summary>むかしむかし、サマリヤ（今のパレスチナの一地方）でひどいききんがありました。 き...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<br />むかしむかし、サマリヤ（今のパレスチナの一地方）でひどいききんがありました。 <br /><br />ききんに加えて、敵軍によって町が包囲されていたことが、最悪の状況に拍車をかけました。<br /><br />町ではなんと、ろばの頭や鳩のふんが売られるようになり、近所の母親たちが共謀して互いの子どもを煮て食べるほど、おぞましい有り様でした。<br /><br />まさにこの世の地獄とも言うべき状況の中で、神のことばがエリシャという預言者に下りました。<br /><b><br />エリシャは言った。<br />「主のことばを聞きなさい。<br />主はこう仰せられる。<br />『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」<br />（２列王記7：1）</b><br /><br />１セアは７．６リットルです。<br /><br />１シェケルは１１．４グラムで、ここでは銀のことを指しています。<br /><br />大ききんの最中、１シェケルの銀でそれほどの上質の小麦粉が売られるということは全く考えられないことでした。<br /><br />なぜなら、売買されていたろばの頭は銀８０シェケル、鳩のふんでさえ銀５シェケルの値がつくほどだったからです。<br /><br />鳩のふんでさえ５シェケルもするのに、そんなにたくさんの小麦粉が１シェケルで！？<br /><br />その時、王に付き従っている者が言いました。<br /><b><br />「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」<br />（２列王記7：2）</b><br /><br />「何をバカなことを」というまるで相手にしていないような反応です。<br /><br />預言者エリシャはすかさず言い返しました。<br /><b><br />「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」<br />（２ 列王記7：2）</b><br /><br />結局こうなりました。<br /><br />不思議ないきさつで、町を包囲していた敵の陣営のたくさんの食べ物、武具、財産が手に入りました。<br /><br />ついには神のことば通り、サマリヤの門で大麦、小麦が１シェケルで売られるようになったのです。<br /><br />神のことばが実現しました。<br />&nbsp;<br />王の付き人は、門に押し掛けるたくさんの民衆に踏みつけられ、死んでしまいました。<br /><br />この預言もまた、現実のものとなりました。<br /><br />神のことばを軽く受け止め、信じて期待することのできなかった一人の人間の末路がここに描かれています。<br />&nbsp;<br />神は私たちのすべての必要知り、偉大な計画をお持ちです。<br /><br />その計画があらゆる方法によって、現実のものになろうとしています。<br /><br />それは、時に私たちの予想や理解を大きく超えたものであるかもしれません。<br /><br />その時に、あなたはどう反応しますか？<br /><br />「まさかそんなことあるわけが」と一蹴することも、主のことばに真摯に耳を傾けることもできます。<br /><br />王の付き人と対照の例として、イエスの母マリヤの信仰に学ぶことができます。<br /><br />まだ男性を知らないマリヤの前に、御使いが現れ、イエスを身ごもっていることを伝えました。<br /><br /><b>マリヤは言った。<br />「ほんとうに、私は主のはしためです。<br />どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」<br />（ルカ1：38）</b><br /><br />どうか主のことばが実現しますように。<br /><br />私たちはこう祈ることができます。<br /><br />そして事実、神のことばは成就するのです。<br /><br />聖書には、神の偉大な約束がいくつも記されています。<br /><br />その一つ一つの神の約束が実現することを信じて、期待して祈りましょう。<br /><b><br />神にとって不可能なことは一つもありません。<br />（ルカ1：37）</b><br /><br /><br />国際ナビゲーター<br />鈴木　陽一]]>
        
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    <title>不思議な助言者......</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.wind-design.com/2011/08/post-127.html" />
    <id>tag:www.wind-design.com,2011://1.446</id>

    <published>2011-08-08T03:03:21Z</published>
    <updated>2011-08-08T03:07:29Z</updated>

    <summary>先週、アメリカのコロラド州から、フロリダ州までの長いドライブに友人と繰り出しまし...</summary>
    <author>
        <name>wind-desing sys</name>
        
    </author>
    
        <category term="今日の言葉" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>先週、アメリカのコロラド州から、フロリダ州までの長いドライブに友人と繰り出しました。</p>

<p>距離にしてほぼ３０５０km。止まらずに走り続けて３１時間ほどの道のりです。</p>

<p>つくづく、話していて疲れる友達じゃなくてよかった、と思いました。<br />
（相手も私についてそう思ってくれてるといいのですが...）</p>

<p>ここまで続けて一緒にいると、話題も途切れるものです。</p>

<p>どういったいきさつかは覚えていないのですが、気がついたら、日本のTV番組「水戸黄門」の説明をしていました。</p>

<p>友人はアメリカ人で、日本文化に全く触れたことのない人ですから、江戸時代の日本の政治体制から始めて、各エピソードで起こるパターンの説明を延々としました。</p>

<p>日本文化になじみのない人に、黄門様が一般人のなりをして、平民の間に入っていくということがどんな意味を持つのか説明するのは至難の業です。</p>

<p>どう説明したものかと葛藤する中で、イエス・キリストの例を挙げました。</p>

<p>よくよく考えてみると、イエス・キリストと水戸黄門の間には、共通点があるような気がするのです。</p>


<p><b>「御子（キリスト）は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、全て御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」<br />（コロサイ１：１５）</b></p>


<p>すべてのものより先に存在し、すべてのものを造られたお方が、庶民ことを気にかけ、庶民の姿をとって、庶民の間に住んでくださった。</p>

<p>そして、庶民の苦しみを目で見るだけでなく、一緒に体験して下さった。</p>


<p><b>「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」（ピリピ２：６，７）</b></p>


<p>水戸黄門みたいだと思いませんか？</p>

<p>ただ、キリストは、危機の瞬間で、水戸黄門のように、印籠を取り出しません。</p>

<p>福音書で、キリストが逮捕されて、裁判にかけられている箇所を読むとき、私は、ついつい、「印籠をだせばいいのに」と思ってしまうのです。</p>

<p>水戸黄門だったら、十字架にかけられそうになった時に、助さん、角さんが出てきて、印籠を取り出し、みんなそこでひざまずいて、ハッピーエンドになります。</p>

<p>助さん角さんも危ない時には、風車の弥七が出てきてくれます。</p>


<p><b>「・・・キリストは人としての性質をもってあらわれ、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」<br />（ピリピ２：７</b><b>，８）</b></p>


<p>一方、キリストは、裁判にかけられた時にも、また、十字架の上でも切り札の「神様札」を出さずに、死を身に受けます。</p>

<p>誰かが罪の罰を受けなければいけないからです。</p>

<p>キリストが十字架の上でしたことは、善人も悪人も含め、すべての人の罪を背負い、その罰を一挙に引き受けたことだったのです。彼はたった一人で死にました。</p>

<p>私達が体験する、この世の闇、罪の汚さ、人間であることから課せられる制限、恥辱、孤独、拒絶、等々を、一人の人としてその身に受けてくれました。</p>

<p>でも、そこで終わりではありません。預言で伝えられていた通り、キリストは、３日後に死からよみがえりました。</p>

<p>つまり、死を通った後で、ついに印籠を取り出したのです。この印籠で、キリストは、神の絶対的な力と権威をこの世に表しました。</p>


<p><b>「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をおあたえになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえらるためです。」<br />（ピリピ２：８－１１）</b></p>


<p>毎回水戸黄門のエピソードの終わりでは、黄門様が「ふぉ、ふぉ、ふぉ・・！」と笑いながら、旅を続けます。</p>

<p>そして、黄門様によって助けられた人々は、微笑みの内に黄門様を見送りながら、それぞれの場所で生活を続けます。</p>

<p>黄門様がしてくれたことを心に留め、感謝しながら、また、さらなる正義を望みながら。</p>


<p><span class="caps">TBS</span>の水戸黄門のサイトを見たら、第４３部と書いてありました。１９６９年から始まって全部で１２０５話になります。驚くべきに毎回毎回同じパターンのスト―リが繰り返されます。</p>

<p>でも、不思議なことに飽きません。日本人はこのストーリーラインが好きなんでしょうね。</p>


<p>私達の中に、「身分の高い、絶対的な権威をもった方が、私達の間に住んでくださり、私達の苦しみを理解してくださり、悪に打ち勝って、正義をもたらして下さる」ことへの強い思いがあるのではないでしょうか？</p>


<p><b>「ひとりの子が私達のために生まれる。主権はその方にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今よりとこしえまで。」<br />（イザヤ９：６）</b></p>


<p>その名はイエス・キリスト。</p>

<br />

<p>ひろこ</p>]]>
        
    </content>
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    <title>闇と光</title>
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    <published>2011-05-23T03:46:14Z</published>
    <updated>2011-06-06T03:49:57Z</updated>

    <summary>私はよく人と出会ったり、人の行動を見たりすると、「この人はなんでこうしてるんだろ...</summary>
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        <![CDATA[<p>私はよく人と出会ったり、人の行動を見たりすると、「この人はなんでこうしてるんだろう」と考え、自分はどうだろうか、と照らし合わせます。</p><p>
一つ一つの行動のその奥に隠れる本当の理由、モチベーション、本質が見える瞬間、その本質が本当に輝くほど美しい人がいます。</p><p><br />
そしてその行動の裏に見える本質に、薄汚いものが見え隠れする人がいます。</p><p><br />
自分でもびっくりするくらい美しい「本質」が原動力となって行動に現れている時があり、そして、びっくりするほど汚い「本質」が自分の行動に見え隠れする時があります。</p><p>サルーキ＝というバンドは、それを</p><p>「心の中にはあるよ、闇と光が。世界の中にもあるよ、闇と光が。いつもその戦いだ。」と歌います。</p><p>
人の中にあるそういう「本質」とかだけじゃない、目に見えるすべてのものに、闇と光がある。</p><p>そして、目に見えないものすべてに闇と光がある。</p><p>
その闇と光が、いつも本気でぶつかり合って戦っている世界。</p>

<p>闇に目を向ける時、本当にげんなりしてしまいます。</p><p>闇が吸い込んでしまうパワーってでかいからです。</p><p>下を向かせ、意気消沈させ、希望を見えなくさせてしまいます。</p><p>今は本当に希望が見えない時代だと思います。</p><p>何かに突き動かされて熱い思いを持ってはじめたことがいくら頑張っても全然実を結ばなかったり、ブレイクスルーを求めて祈り続けていることが、一向に叶えられなかったり、ちやほやされてキミならできるなんて言われていたことが、まったく形になっていかなかったり。</p>

<p>仕事は無くて、金もない。</p><p>いつも祈っている白馬の王子様は現れる気配が無い。</p><p>
自分は大丈夫って思っていたのにいとも簡単に罪の世界に真っ逆さま。</p><p>寝耳に水で、職を失い、大切な人まで失ってしまう。</p><p>あれよあれよと言う間に借金は膨れ上がる。</p><p>神様なんでって嘆きながら生きている。</p><p>そういうところを、今どれだけ多くの人が通っていることでしょうか。</p><p>光が見えない。「所詮夢物語だったんだ」と自分が最初に見た大きな「絵」を捨てて、堅実安定を求めようとしてしまう人がどれほど多いでしょうか。</p><p>たしかに闇はあります。</p><p>そしてその闇はとてつもなくでかい。</p><p>もう動けなくなりそうになるし、希望を失いそうにも、諦めて妥協しそうにもなります。</p><p>でも、やっぱり思います。</p><p>光はある。</p><p>絶対ある。</p><p><b>その光は闇の中をうごめいていた。闇は光に打ち勝たなかった。（ヨハネ１・５）</b></p>

<p>光がそこに起こるとき、闇は決して光に打ち勝たない。打ち勝てないんです。</p><p>私たちはやっぱり光を見つめることをやめてはいけないと思います。</p><p>
どんなに闇がでかくて、</p><p>どんなに周りが否定的で、</p><p>どんなに自分の状況が最悪で、</p><p>自分の中にいいもんがなんもないって気づいても、</p><p>やっぱり私たちは、光を見つめることをやめてはいけない。</p><p>光は、闇の中をうごめいているんだから。</p><p>そして闇はその光に決して打ち勝つことが出来ないんだから。</p><p>光から目をそらせたら、一瞬で闇に吸い込まれてしまうから。</p><p>目が乾いて、しょぼしょぼして、ふっと気が抜けそうになるのをこらえて乗り越えて、とにかく光を見続けていきたいです。</p><p><b>「わたしは、世の光です。わたしに従うものは、</b></p><p><b>
決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」（ヨハネ８・１３）</b></p>]]>
        
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    <title>ローマ１章</title>
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    <published>2011-05-22T03:42:11Z</published>
    <updated>2011-06-06T03:45:22Z</updated>

    <summary>聖書には旧約聖書と新約聖書があります。新訳聖書は旧約聖書より短いですが、クリスチ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>聖書には旧約聖書と新約聖書があります。<br /><br />新訳聖書は旧約聖書より短いですが、クリスチャンが土台とするいわば経典です。<br /><br />その新約聖書の中でも、わずか１６章、節にすると４３３節、１６００文字くらいの文書であるローマ書。読み始めてだいたい４０分もあれば最初から最後まで読めてしまうほどのこの本は、この２０００年間何度も歴史をひっくり返してきました。<br /><br />たとえば、１５１１年。マルチン・ルターは、このローマ書１・１７節の「義人は信仰によって生きる」の箇所を読んで、宗教改革に踏み切ったそうです。</p><p><br /></p><p>
彼は、この文書を、「新約聖書中最も重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべき書」と言いました。<br /><br />
</p><p>コルリッジは、「今この世に存在する本の中で最も深い意味を持つ文書」と表現しました。<br /><br />
ローマ人への手紙は「福音の鍵」であり、「聖書全体を解く鍵」です。それは、福音の論理的構造を明らかにするのみならず、新しい契約と古い契約との関係について根本的な問いに対して詳しい答えを提示してくれているのです。<br /><br />
そんなローマ書のエッセンスが、第１章１６節に凝縮されています：<br /><br />&nbsp;<b>私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。</b></p>

<p>福音とは何でしょうか。２−４節に書いてあります：</p><p><br /><b>
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエスキリストです。</b></p><p><b><br /></b>福音とは、イエスキリストです。<br /><br />パウロは、ローマ書で「自分はこのイエス・キリストを恥としないんだ！」ということを主張し、自分の立場を明確にしました。<br /><br />ここにパウロの思いが込められています。<br /><br />マルコの福音書8章38節では、キリストが次のように言っています。</p><p><b>
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時には、そのような人のことを恥じます。<br /><br /></b>パウロは福音を恥と思わないどころか、誇っているのです。なぜでしょうか。</p>

<p>それは、福音は、救いを得させる神の力だからです。</p>

<p>このパウロの確信とパッションがこのローマ書全体を貫いているのです。</p>

<p>パウロの息遣いに触れられるローマ書、腰を下ろしてちょっとじっくり読んでみませんか。</p>]]>
        
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    <title>本当に大切なもの</title>
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    <published>2011-04-27T05:41:28Z</published>
    <updated>2011-04-27T05:43:13Z</updated>

    <summary>キリストはこう言われました： だから、わたしはあなたがたに言います。 自分のいの...</summary>
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        <![CDATA[<p>キリストはこう言われました：</p>

<p><b>だから、わたしはあなたがたに言います。<br />
自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、<br />
また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。<br />
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。<br />マタイ６章２５節</b></p>


<p>何が大切なことなのか、何が最優先されるべきことなのか、そういうことが見えずらい世界だと思います。</p>

<p>自分のいのちが健全であるか、イキイキ喜びもって生きているか、他の人に何を貢献できるか、<br />
そんなことよりも今あるいのちを保つために、今日何食べよう。何飲もうって考える世の中です。</p>

<p>でもいくら今日美味しい物食べまくっても、高級ワイン飲みまくっても、<br />
一晩寝て、朝起きたらまた渇きます。お腹すきます。</p><p>結局何時まで経っても満たされないんですよね。</p><p>食べ物、飲み物はいのちの満たしにつながらないのです。</p><p>また、私たちは、罪から離れて自分の体を聖く保とうとか、このからだを神の働きのために用いようと思ったりする前に、今日何着ようかって考えます。</p><p>おしゃれな服着たて街を歩きたい。</p><p>今日はどうしようかしらって考えます。</p><p>でも外見着飾る前に内面磨かないと、いくら最新スタイルで身を包んでも汚い内側は臭い出すんですよね。</p><p>いま、自分が見るべきところはどこなのか。</p><p>食べるもの？飲むもの？着るもの？</p><p>それよりも、まず根っこの部分、土台の部分、内側にフォーカスしたいです。本当に大切なものを見つめたいです。</p><p>自分のいのちをかけて、自分のからだを用いて、神様のために働くとき、キリストはひとつのことを私たちに約束してくださっています：</p><p><b>だから、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。<br />マタイ６章３３節</b></p>]]>
        
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    <title>ヨブ記に学ぶ苦難のときの心構え</title>
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    <published>2011-04-25T03:23:01Z</published>
    <updated>2011-04-25T03:25:09Z</updated>

    <summary>旧約聖書には、「ヨブ記」と言う物語が出てきます。４２章から成り立つこの物語では、...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>旧約聖書には、「ヨブ記」と言う物語が出てきます。</p><p>４２章から成り立つこの物語では、全てを持っていたヨブが、全てを失い、そしてまた全てを取り返すまでの葛藤苦悩が書かれています。</p><p>この書を読むと、人生における最もつらく不可解な事柄の背後に、しっかり構える神様がいることが分かってきます。</p><p>私たちがこの物語を見るとき、はじめからヨブの試練の前の天での会談を読みます。</p><p>どうしてヨブが苦悩を受けるのか最初に理解するのです。</p><p>そして私たちは、数ページを捲るとそのクライマックスもすぐ知ることができます。</p><p>どのような結果がヨブを待ち受けているのかすぐに知れます。</p><p>しかし、ヨブにはこのどちらも知らされていませんでした。</p><p>もしヨブが、この天での会談や私たちが知っている彼の結末を試練の最中見ることができたなら、彼の態度は全く異なったものになっていたでしょう。</p><p>しかし、ヨブには試練を受けている間、それがどのような理由で始まったか、いつ終わるのか、どんな結末が待っているのか全く何も知らされませんでした。</p><p>ヨブの友にもそれは知らされていませんでした。天上の世界と、私たち後の人間にしか分からないのです。</p>

<p>苦しみの最中、ヨブは何も知らなかったのです。</p><p><br />
知っていたとしたら、信仰を働かすことは出来無かったし、火に試された金のようになることもなかったのです。<br /><br />
</p><p>神様は、私たちに現在の段階であえて明かさないことがあると思います。</p><p>それを明かすことが私たちの益にならないからです。<br /><br />
</p><p>聖書は、「啓示の書」としてだけでなく、「留保の書」としての意味があるのです。</p><p>教えてくれることもあれば、教えないこともあるということです。<br /><br />
</p><p>そしてその「留保の書」としての役割は、私たちに信仰を働かす機会を与え、火に試された金のようにさせることなのです。</p><p>だから、苦難の中にいるとき、その目的が見えないとき、私たちには希望があります。</p><p>その苦難の背後で見守ってくださる神がいること、その苦しみには目的があることが天で話し合われており、最後には祝福があることを信じていいのです。</p><p>
苦難の時にはヨブ記を読んで、見えないものを期待する心を養いましょう</p>]]>
        
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    <title>神のことば＝キリスト</title>
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    <published>2011-04-22T05:55:29Z</published>
    <updated>2011-04-27T05:57:25Z</updated>

    <summary>マタイ４章４節でキリストは言われました：「「人はパンだけで生きるのではなく、神の...</summary>
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        <![CDATA[<p>マタイ４章４節でキリストは言われました：</p><p>「「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。」</p><p>
それでは、この「書いてある」というのはどこに書いてあるのでしょうか。</p>

<p>それは、旧約聖書の申命記８章３節に書いてあります。</p>

<p><b>それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった。</b></p>

<p>私たちの肉体を力づけるために私たちが肉的な食べ物を食べるように、私たちの霊を力づけるためには、霊的な食べ物、つまり神の言葉を食べる必要があるのです。<br /><br />
</p><p>日々、御言葉に浸ることは、時に食べ物を食べるよりも重要です。</p><p>このことを踏まえて、ヨハネの福音書６章でのパリサイ人とイエスとのやりとりを見てみたいと思います。</p><p>
（３１−３５節）<br />&nbsp;「わたしたちの先祖は、荒野でマナを食べました。「彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。」と書いてあるとおりです。」<br />イエスは彼らに言われた。</p><p>「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの（人）だからです。」</p><p>そこで彼らはイエスに言った。</p><p>
「主よ。いつもそのパンを私たちにお与え下さい。」</p>

<p>イエスは言われた。<br />
「わたしがいのちのパンです・・・。」</p>

<p>ここで、イエスは、ご自分が「いのちのパンだ」と話されました。</p>

<p>キリスト＝いのちのパン<br />
いのちのパン＝神のことば<br />
神のことば＝キリスト</p>

<p>という式が成り立つわけです。</p>

<p>ヨハネの福音書１章１節にはこうあります</p><p><b>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。</b></p>

<p>キリストこそがいのちのパンであり、<br />
いのちのパンであるキリストこそが神のことばなのです。<br /><br />聖書の言葉を読むとき、私たちは、キリストを食べているのです。<br /><br /></p><p>聖書を読むとき、私たちはキリストを自分のうちに取り込んでいるのです。<br /><br />聖書はただのよい本ではないのです。</p><p>
これは、神の言葉なのです。<br /><br />そして、神のことばとはキリストなのです。<br /><br />御言葉を読むことによって、私たちはキリストを自分の中に取り込み、そうすることによってキリストに似たものとなっていくのです。</p>

<p>DLムーディーという人は言いました：<br />
This Book will keep me from sin, and sin will keep me from this Book.<br />
この本は私を罪から遠ざけ、罪は私をこの本から遠ざける。</p>

<p>毎日御言葉に浸って生きましょう。</p>]]>
        
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    <title>生ける水</title>
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    <published>2011-04-21T03:30:52Z</published>
    <updated>2011-04-21T03:34:10Z</updated>

    <summary>今日は、聖書に出てくる「水」について考えてみたいと思います。 詩編１にはこうあり...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>今日は、聖書に出てくる「水」について考えてみたいと思います。</p>

<p>詩編１にはこうあります。</p>

<p><b>幸いなことよ。<br />
悪者のはかりごとに歩まず、<br />
罪人の道に立たず、<br />
あざける者の座に着かなかった、その人。<br />
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、<br />
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。<br />
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。<br />
時が来ると、実がなり、その葉は枯れない。<br />
その人は、何をしても栄える。</b></p>

<p>力強い聖書箇所です。</p><p>
これを私たちが本気で信じたらどうなるでしょうか。</p><p>
この御言葉を本気で信じ、神のことばを口ずさむ人生を送る人には何が待ってるでしょうか。</p><p>その人は、何をしても栄えると書いてあるんですね。</p><p>栄えるとは、金銭的に祝福されるってだけの一面的な栄え方ではなく、人生のあらゆる面で豊かになるということ。</p><p>しかし私たちがきれいな水の無い所に植わったとき、その時私たちは枯れてしぼんでいってしまうのです。</p><p>聖書では、「水」は、「ことば」を表すそうです。</p><p>聖書に出てくるのは３つの種類のことば、</p><p>神の言葉、サタンの言葉、そして私たちの言葉。</p><p>３つの言葉の間には常に戦いがあります。</p><p>
サタンの言葉は、神の言葉に敵対し、私たちの言葉も往々にして神の言葉に敵対します。</p><p>聖書には、サタンのささやきを、「洪水」や「泥沼」として表現している箇所がよく出てきます。</p><p>詩編６９・１、１４</p><p><b>
神よ。わたしを救って下さい。<br />
水が、わたしののどにまで、入ってきましたから。<br />
私は大水の底に陥り、奔流がわたしを押し流しています。<br />
私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにして下さい。</b></p><p>同じように私たちのことばも、「水」と聖書であらわされている箇所があります：</p><p>箴言１８・４</p><p><b>人の口のことばは深い水のようだ。</b></p><p>わたしたちが神の言葉に浸っていないと、サタンの言葉に惑わされ、私たちの深い水が、洪水や泥水にやられてしまうのです。</p><p>神のことばだけが、サタンのことばに太刀打ち出来るもの。</p><p>私たちはそこまで賢くないからです。</p><p>わたしたちの知恵や頭脳でなんとかなることじゃないのです。</p><p>神の言葉にすがること。これが鍵なのですね。</p><p>サタンのことばが「洪水や泥沼」であるのに対して、神のことばは「いのちの水」と表現されます。</p>

<p>ヨハネ４・１４<br /><b>
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。</b></p>

<p>キリストを受け入れるとき、自分の中に永遠のいのちへの泉がでます。</p><p>その泉は、天国に続く泉です。</p><p>私たちの深いところに流れる水が、永遠のいのちへの泉となり、</p><p>その泉が流れるとき、私たちは内側からきれいになっていくのです。</p><p>キリストのいのちの水が私たちのうちに流れ出ますように。</p>]]>
        
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    <title>ローマ書１章</title>
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    <published>2011-04-20T07:22:29Z</published>
    <updated>2011-04-20T07:24:42Z</updated>

    <summary> 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。   新訳聖書は旧約聖書より短いですが、...</summary>
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        <![CDATA[<p> 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。 </p>

<p> 新訳聖書は旧約聖書より短いですが、クリスチャンが土台とするいわば経典です。<br />
 <br />
その新約聖書の中でも、わずか１６章、節にすると４３３節、１６００文字くらいの文書であるローマ書。読み始めてだいたい４０分もあれば最初から最後まで読めてしまうほどのこの本は、この２０００年間何度も歴史をひっくり返してきました。</p>

<p>たとえば、１５１１年。マルチン・ルターは、このローマ書１：１７節の「義人は信仰によ生きる」の箇所を読んで、宗教改革に踏み切ったそうです。</p>

<p>彼は、この文書を、「新約聖書中最も重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべき書」と言いました。</p>

<p>コルリッジは、「今この世に存在する本の中で最も深い意味を持つ文書」と表現しました。</p>

<p>ローマ人への手紙は「福音の鍵」であり、「聖書全体を解く鍵」です。</p>

<p>それは、福音の論理的構造を明らかにするのみならず、新しい契約と古い契約との関係について根本的な問いに対して詳しい答えを提示してくれているのです。</p>

<p>そんなローマ書のエッセンスが、第１章１６節に凝縮されています：</p>

<p><b>私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。</b></p>

<p>福音とは何でしょうか。２−４節に書いてあります：</p><p>こ<b>の福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエスキリストです。</b></p>

<p>福音とは、イエスキリストです。</p><p><br />
パウロは、ローマ書で「自分はこのイエス・キリストを恥としないんだ！」ということを主張し、自分の立場を明確にしました。<br /><br />
</p><p>ここにパウロの思いが込められています。</p>


<p>マルコの福音書8章38節では、キリストが次のように言っています。<br /><br />
</p><p>このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時には、そのような人のことを恥じます。</p><p>パウロは福音を恥と思わないどころか、誇っているのです。なぜでしょうか。</p><p>それは、福音は、救いを得させる神の力だからです。</p><p>
このパウロの確信とパッションがこのローマ書全体を貫いているのです。<br /><br />
</p><p>パウロの息遣いに触れられるローマ書、腰を下ろしてちょっとじっくり読んでみませんか。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>御言葉の力</title>
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    <published>2011-04-19T05:52:16Z</published>
    <updated>2011-04-27T05:53:55Z</updated>

    <summary>聖書は全部で６６巻あります。これは、旧約９２９章と新約２６０章合わせて１１８９章...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<div>聖書は全部で６６巻あります。</div><div><br /></div><div>これは、旧約９２９章と新約２６０章合わせて１１８９章から成り立ちます。</div><div><br /></div><div>一日３、４章読むと、１年間で読み終られるこの本は、</div><div><br /></div><div>もし１０章ずつ読むと１２０日間で読み終えることが出来ます。</div><div><br /></div><div>１年間に３回読むことが出来る計算です。</div><div><br /></div><div>１０章読むのにかかる時間を約１時間だとして、毎日５時間読めるとすると、一日５０章読み進められます。そうすると２４日間で読み終えることができます。</div><div><br /></div><div>２週間の休暇を取り、毎日１０時間、一日１００章聖書を読み込むと、１２日間で読み終えられる計算です。</div><div><br /></div><div>たくさん読めばいいというわけでは無いですが、自分のベースを築き、御言葉が人生の中心になっていくように読み込んでいく必要があります。</div><div><br /></div><div>自分なりの聖書を読む習慣を模索していきたいですね。</div><div><br /></div><div>聖書６６巻のライターは約４０人いますが、著者は神お一人です。</div><div><br /></div><div>この本は神の自伝です。</div><div><br /></div><div>この言葉を毎日読み込んでいく中で、私たちは神様のことをより知っていくことが出来るのです。</div><div><br /></div><div>聖書の中では、聖書の言葉を「御言葉」と表現し、この御言葉は、「パン」や、「糧」と表される記述が多く出てきます。</div><div><br /></div><div>マタイ６章のキリストは、「神にこう祈りなさい」と祈った祈りの中で、私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」という一言を入れられました。</div><div><br /></div><div>日ごとの糧とは、食べものだけの話ではないんですね。</div><div><br /></div><div>それは、神の言葉をも意味するのです。</div><div><br /></div><div>私たちは、日ごとの糧である聖書の御言葉を読んでいないと弱く、疲れてしまうのです。</div><div><br /></div><div>私たちは御言葉を食べる必要があります。</div><div><br /></div><div>聖書を読み込む必要があります。</div><div><br /></div><div>聖書から日々糧を得る必要があるのです。</div><div><br /></div><div>毎日、御言葉から力を受け、その言葉によって養われていきましょう。</div><div><br /></div>]]>
        
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    <title>神の右ストレート</title>
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    <published>2011-03-30T05:58:03Z</published>
    <updated>2011-03-30T06:01:28Z</updated>

    <summary>　神を信じ、神に信頼して生きるとは、この世の不安や悩み、苦しみや痛みが全くない人...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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        <![CDATA[<p>　神を信じ、神に信頼して生きるとは、この世の不安や悩み、苦しみや痛みが全くない人生のことではありません。<br /><br />　主イエスを受け入れたが最後、過去と未来のあらゆる困難が過ぎ去り、すべてハッピーハッピーな人生になるかというと、そういうものではありません。<br /><br />　聖書の中に出てくる多くの人物が、神を恐れ神に信頼して生きていましたが、多くの苦しみの中を通らされてきました。<br /><br />　時に落胆し、怒り、愚痴をこぼし、「なぜ、な」と神に理由を尋ね、あるいは悲嘆に暮れる、そんな姿が描かれています。<br /><br />　神を信じ、神に信頼して生きるとは、順風満帆な時はもちろん、そのような困難の中にあっても、神に信頼し、ゆるがない希望を抱いて生きるということです。<br /><br />　聖書は言っています。<br /><br />　<b>恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。（イヤ４１：10）</b><br /><br />　ところで、国や文化を問わず、人は左利きよりも右利きの方が圧倒的多数を占めています。<br /><br />　神も右利きかどうかは分かりませんが、聖書には「右の手」が聖なるもの、私たちを助け、救うものと記している箇所が多くあります。<br /><br />　右利きのボクサーは基本的に左手と左足を前にして構えます。<br /><br />　空手やその他多くの格闘技でもそうです。聞き手を後ろに構えることで、強いパンチを効果的に打つことができます。<br /><br />　左ジャブからの右ストレートは、ボクシングの基本であり王道です。<br /><br /></p><p>　困難に直面した時、私たちは自分だけの力に頼って切り抜けようとすることがあります。<br /><br />　頼れるのは自分だけ、と自らを鼓舞して努力します。<br /><br />　自分の力で、自分の「右ストレート」で困難を打破しようと試みるのです。<br /><br /></p><p>　しかし聖書を読むと、神を信じ、神に信頼して生きる人は、自らの「右ストレート」は放てないことになっています。<br />　<br />　<b>あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがなたを助ける」と言っているのだから。（イザヤ４１：13）<br /><br />　</b>自分の「右」は、神によって堅く握られているために、繰り出せません。<br /><br />　その代わりに、神はその義の右の手で守ってくれるのです。<br /><br />　神は左手で私たちの右手を握り、義の右手で私たちとともに戦ってくれるのです。<br /><br />　なんという恵みでしょうか。<br /><br />　無理に自分で右ストレートを打とうとせずに、神と手をつなぎましょう。<br /><br />　つながっている右の手が、神から離れないようにしっかり握っていましょう。<br /><br />　人の力ではない神の力が、私たちを守ってくれます。神に信頼して生きるとは、そういう生き方です。<br /><br /><b>　主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。（出エジプト１５：6）<br /></b><br /></p><p>　国際ナビゲーター<br />　鈴木陽一</p>]]>
        
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