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    <title>Wind Design｜ウィンドデザイン</title>
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    <title>賜物を用いる</title>
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    <published>2010-07-29T03:27:02Z</published>
    <updated>2010-07-29T03:30:04Z</updated>

    <summary>　聖書は、人々の多様性を認め、互いにそれぞれが神から与えられた素晴らしい持ち味を...</summary>
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        <![CDATA[<p>　聖書は、人々の多様性を認め、互いにそれぞれが神から与えられた素晴らしい持ち味を生かして互いに貢献し合っていくべきことを教えています。<br /><br />　<strong>それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。　（１ペテロ４：１０）<br /><br />　</strong>私たちの得意なこと、好きなこと、上手くできることを通して、人が喜んでくれる。そのようなものを聖書では「賜物」と呼んでいます。英語では主にGift（ギフト）と訳されています。<br /><br />　天賦の才能という表現がありますが、まさに神が恵みによって私たちに賜った、すなわち与えてくれたギフト、それが賜物です。<br /><br />　一人ひとり異なる人間として、神によって造られた私たちは、その外見だけでなく、感覚、好み、得手不得手も千差万別です。またそれは、創造者である神ご自身の計画によるものです。<br /><br />　だれしも、得意なこと、興味のあること、やっていて楽しいことがあるはずです。<br /><br />　それが他の人より必ずしも秀でているものでなくとも、喜んでもらえるものがあります。<br /><br />　その一人ひとりの賜物を生かして、互いに仕え合う。神から恵みを受けている者の大切な役割だと聖書は言っています。<br /><br />　また、私たちはそれぞれ強さを持っていますが、同時に弱さも持つ存在でもあります。<br /><br />　それは肉体的な弱さ、そして精神的な弱さです。<br /><br />　ある人は、はた目からは弱さしか持っていないように思える人もいるかもしれません。<br /><br />　しかし、聖書は、私たちを一つのからだに例え、その弱い部分をこのように表現しているのです。<br /><br />　<strong>それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。　（１コリント１２：２２）<br /><br />　</strong>弱い器官が、からだの中ではかえって欠かせない存在である。聖書では、弱さが必ずしもネガティブなもの、隠すべきもの、克服すべきものとしては捉えられていないのです。<br /><br />　このように聖書が教えてくれているので、私たちは自分の賜物を生かして積極的に互いに貢献していくことができるのと同時に、自分の弱さをも、それを隠さず、そして受け止めることができます。<br /><br />　神は私たち一人ひとりに、大きな計画を用意してくれています。<br /><br />　私たちの中に、まだ発掘されていない神からの賜物が眠っているかもしれません。<br /><br />　一人ひとりが自分の賜物を発見し、それを研磨し、自分らしく互いに貢献しあっていく。<br /><br />　それが、聖書が描く私たちの理想の関係性なのです。<br /><br />　<strong>あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。　（１コリント１２：３１）<br /><br /><br /></strong></p>
<p>国際ナビゲーター</p>
<p>鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>みんなラブソングを愛している</title>
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    <published>2010-07-28T00:39:54Z</published>
    <updated>2010-07-28T00:43:52Z</updated>

    <summary>　元ビートルズのポール・マッカートニーは、&quot;Silly Love Songs&quot;と...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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        <![CDATA[<p><strong>　</strong>元ビートルズのポール・マッカートニーは、"Silly Love Songs"という歌の中で「世界をラブソングでいっぱいにする」と約束しました。<br /><br />&nbsp;それが実現したかどうかはわかりませんが、いつもどの時代も、新しいラブソングが生まれています。<br /><br />&nbsp;スタイルが変わりリズムが変わりますが、人々はラブソングを愛するのを止めません。神も同じです。<br /><br />　聖書は「もっとも美しい詩（うた）」雅歌を紹介しています。<br /><br />&nbsp;どんなメロディーだったかはわかりませんが、詩の一部は今日のラブソングとそれほど変わりません。<br /><br />　♪あなたのくちびるで、私にキスして。あなたの愛はワインよりも素敵・・・一緒にいる時は幸せ、さあ、たくさん飲んで愛の中で自分を忘れて♪雅歌1:2、4<br /><br />　詩にはかなり大胆な表現もあります。<br /><br />&nbsp;私たちはセックスについて語ることを恥ずかしいと思いますが、どうも神はそうではないようです。<br /><br />&nbsp;どうして聖書にラブソングが、それもかなりきわどいのが入っているのだろうといぶかる方もいらっしゃるでしょう。<br /><br />&nbsp;それに正しく答えられる人は誰もいませんが、よくいわれる答えは、この歌が神のご自分の民―イスラエルーに対する愛を歌ったものだというものです。<br /><br />&nbsp;もうひとつは、これは神の私たちに対する思いを歌ったものだとするものです。<br /><br />&nbsp;私にはどちらが正しいのかわかりませんが、神があなたを愛していることは分かります。<br /><br />&nbsp;それは知的な概念でのことではありません。<br /><br />&nbsp;神はあなたに全く夢中なのです。<br /><br />&nbsp;あるラブソングにこういう歌詞があります。<br /><br />&nbsp;♪あなたがいないと彼は微笑むことができない。あなたがいないと笑うことができない♪<br /><br />　あなたが喜んでいるとき、神も喜んでいます。<br /><br />&nbsp;あなたが悲しいとき、神も悲しんでいます。<br /><br />&nbsp;あなたのことを、世界中の誰もおよばないほど深く強く愛しているからです。<br /><br />&nbsp;今度、ラジオやi-Podでラブソングを聞くときに、どれほど深い強い愛が歌われていつか気をつけてみてください。<br /><br />&nbsp;そして神がそれをはるかに上回る深く強い愛を数千年前に歌にしたことを思い出してください。<br /><br />&nbsp;その愛は今も変わらずあなたに向けられています。<br /><br /><a href="http://www.al-pha.com/alex/new_instructor.html">&nbsp;ジェフ・ディーン</a></p>]]>
        
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    <title>聖書が語る正しさ</title>
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    <published>2010-07-21T02:35:18Z</published>
    <updated>2010-07-21T02:38:25Z</updated>

    <summary>　聖書が私たちに与えている大きな約束は、私たちが神のもとで永遠のいのちが与えられ...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　聖書が私たちに与えている大きな約束は、私たちが神のもとで永遠のいのちが与えられるということです。<br /><br />　永遠のいのちという大きな希望です。その約束を私たち一人ひとりが手にするために、神から求められているもの、それは、私たちが「正しい」者になるということです。<br /><br />　その正しさとは、「神の前に正しいこと」という意で用いられ、そのことを表す語として「義」という言葉が使われます。何によって人の正しさをはかるのか。<br /><br />　その判断は神にある、というのが、聖書が私たちに示す大きな前提です。聖書の中には「義」について書かれた箇所が多くあり、それが聖書のメッセージの根幹を成すカギであるとも言えます。<br /><br />　聖書の中で最初に、義ということばが登場するのは、こんな一文です。<br /><br /><strong>　彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。　（創世記15:6）<br /><br />　</strong>「彼」とは、アブラハムという人のことで、この直前には、神がアブラハムに対して子孫を星の数ほどに増やし、祝福するというメッセージを送っています。<br /><br />　アブラハムはそれを信じ、神は、その彼の信仰を「義」と認めました。彼の正しさは、彼が信じたことによって認められたのです。<br /><br />　また、それから1000年以上も後に書かれた聖書の箇所では、同じくこう言われています。<br /><br /><strong>　人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。　（ローマ3:28）<br /><br />　</strong>ここでも、信仰によって義と認められる、とあります。<br /><br />　聖書が私たちに伝えているのは、私たちが正しい存在になるために、神を信じる信仰が必要だということです。<br /><br />　私たち人間は、自分自身の力だけでは正しい者になるこができません。「正しいかどうか」は神が判断することです。<br /><br />　私たちは、自分が正しい者であるかどうか、神に判断され、受身的に、正しいと「認められる」存在なのです。<br /><br />　主体的に追い求めるというより、むしろ受身的な印象を受けます。正しい者になるために私たちがすべきことは、ただ信じる者になるということです。<br /><br />　<strong>信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。　（ヘブル11:6）<br /></strong></p>
<p>国際ナビゲーター<br /><br />鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>祈るという意味を映画から</title>
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    <published>2010-07-13T02:43:15Z</published>
    <updated>2010-07-13T02:47:29Z</updated>

    <summary>　先日、Evan Almighty（エバン・オールマイティ） という映画を観まし...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　先日、Evan Almighty（エバン・オールマイティ） という映画を観ました。<br /><br />　別に特記する必要もない普通のコメディなのですが、その中の登場人物の一言が忘れられません。<br /><br />　それは、「旦那の気が変だ」と夫を離れ、家を出た女性に対して神様役を演じる男の人が言った言葉です：<br /><br />　Let me ask you something. </p>
<p>　If someone prays for patience, do you think God gives them patience? </p>
<p>　Or does he give them the opportunity to be patient? </p>
<p>　If they pray for courage, does God give them courage, or does he give them opportunities to　be courageous?</p>
<p>　If someone prayed for their family to be closer, you think God zaps them with warm, fuzzy feelings? </p>
<p>　Or does he give them opportunities to love each other? </p>
<p>　耐え忍ぶ心を下さいと祈るとき、神はどのようにその祈りに答えられるのだろうか。</p>
<p>　耐え忍ぶ心を与えられると思う？　それとも耐え忍ぶ心を育む機会をくれるだろうか。</p>
<p>　勇敢な心を下さいと人が祈るとき、神は勇敢な心をすぐに与えられるだろうか、それとも勇敢な心を持つための機会を与えられるだろうか。</p>
<p>　もしだれかが、家族の中が深まるように祈るとき、神様は家族をあいまいになんとなく引き寄せ合うだろうか？</p>
<p>　それとも、家族が愛し合わなければやっていけないような機会を与えるだろうか。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　なんだか衝撃的でした。<br /><br />　神様に「信仰」を下さいと祈る時、もしかしたら神様は目に見えない形で答えないことによって、わたしたちの信仰を育むチャンスをくれていて、<br /><br />　「愛する心」を下さいっていう祈りには、身近に愛することが難しい人を置く事によって、わたしたちに愛する心を伸ばす機械を与えてくれているのかもしれませんね。<br /><br />　そう考えてみると、祈る私たちにも責任があります。<br /><br />　中途半端な祈りはできないです。<br /><br />本当に願うことを祈り、そのことが叶うためには厳しい状態をも覚悟する。<br /><br />　ありきたりな定形的祈りで済ませず、内容にしっかり注意を払って、いつでも本気な祈りを神様に捧げたいです。<br /><br /><font style="FONT-SIZE: 1em"><a href="http://revivaljapantimes.com/">松本務</a></font></p>]]>
        
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    <title>神に喜ばれる寛容</title>
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    <published>2010-07-12T01:38:59Z</published>
    <updated>2010-07-12T01:44:35Z</updated>

    <summary>　聖書が紹介する一つの大切な人格的な視点は、「寛容」であることです。それは、心を...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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        <![CDATA[<p>　聖書が紹介する一つの大切な人格的な視点は、「寛容」であることです。それは、心を広く持ち、他者をきびしく咎めたりしないことです。<br /><br />　イエス・キリストはこの寛容を、畑に蒔かれた麦のたとえを用いて説明しました。<br /><br />　ある人が畑に良い麦の種を蒔くと、敵がやって来て麦の中に毒麦を蒔いてしまいました。<br /><br />　やがて麦が実ると毒麦も一緒に現れたので、しもべたちは毒麦を抜き集めようとしますが、主人は、一緒に良い麦まで取ってしまう恐れがあるからと、それを制します。<br /><br />　そして、収穫まで両方ともそのままにしておくように伝えます。<br /><br />　<strong>収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしな<br />さい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。　（マタイ13・30）<br /><br />　</strong>「収穫の時期」は神の裁きが下るこの世の終わりであり、「刈り手」は御使いだとイエスは説明しています。<br /><br />　正しい者も悪い者も、この世の終わりの時に刈り取られ、それぞれ定められた場所に置かれるということを言っています。<br /><br />　人間が自分の目から見て良し悪しを判断することは、神の視点に比べれば、絶対的に正しい視点ではありません。<br /><br />　それぞれの文化や育ってきた背景、置かれている心理状態によって、その判断の基準は変わりますし、また時には人の価値基準そのものが及ばないこともあるかもしれません。<br /><br />　一見毒麦のように見えても、実は神の目に良い麦であることも考えられます。<br /><br />　また、使徒パウロはこう言っています。<br /><br />　<strong>愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。　（ローマ12・19-20）<br /><br />　</strong>これらの聖書のことばから、ある人や出来事を勝手にさばき、悪いと判断してしまうこと、またそのことに対する復讐は、私たちのすることではなく、神の仕事であるということが分かります。<br /><br />　神がその良し悪しを判断し、必要に応じて復讐しその報いを果たします。<br /><br />　そしてあとから続くことばから分かるように、聖書ではむしろ、敵に施してあげるように勧めています。「目には目を」ではなく、かえって敵に施すことが神に喜ばれることであり、その行為が、神の裁きを増し加えます。<br /><br />　寛容な心を持ち、私たちの一方的な視点から「毒麦」と決めつけてしまわないように気をつけましょう。さばくのは神の仕事です。<br /><br />　私たちはタイミングを待ち、また敵に良い行いをしていくことが期待されています。それが、神が私たちに望んでいることです。<br /><br />　<strong>悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい。（ローマ12・21）<br /><br /><br /></strong>国際ナビゲーター</p>
<p>鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>選ばれた者</title>
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    <published>2010-07-09T02:57:08Z</published>
    <updated>2010-07-09T03:01:38Z</updated>

    <summary>　自分がなぜ生まれたのか、考えたことはありますか？　目的は何なのか、人生には意味...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　自分がなぜ生まれたのか、考えたことはありますか？<br /><br />　目的は何なのか、人生には意味があるのか。<br /><br />　　私が10代だったとき（ずいぶん昔の話ですが）「Dust in the Wind（風の中のちり）」という曲が流行りました。こんな歌詞です。<br /><br />　「あなたは、限りない海の一滴の水に過ぎない。</p>
<p>　ぼくたちがすることはすべて地面に落ちてしまうが、だれも見ようとしない。</p>
<p>　ぼくたちはみんな風の中のちり」<br /><br />　楽しい歌ではありませが、当時私の感じていたことを代弁してくれているようでした。<br /><br />　そう感じる人が多かったのでヒットしたのでしょう。<br />　<br />　私１人がいなくなったら、世界は少し良くなったり悪くなったりするのだろうか？<br /><br />　私がもし生まれていなかったとしたら？<br /><br />　聖書は「あなたは特別だ」といっています。<br /><br />　&nbsp;<strong>すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。（エペソ１・４）<br /><br /></strong>　聖書によると、神が太陽をつくり、地球を造り、山や海をつくったとあります。<br /><br />　世界を創造されたのです。<br /><br />　しかしそれよりも前に、神はあなたをお選びになりました。<br />　<br />　私たちがイエス・キリストを人生の主と「選ぶ」決心をするときに、実は私たちは、はるかはるか昔に私たちを選んでくださった方を選んでいるだけなのです。<br /><br />　決して誰にも「あなたはふつうで特別なところは何もない」と言わせないでください。<br /><br />　あなたは、神に特別に選ばれた存在です。<br /><br />　そして最善の知らせは、神様は決して間違って選択をなさらないということです。<br /><br /><br /><a href="http://www.al-pha.com/alex/new_instructor.html">ジェフ・ディーン</a></p>]]>
        
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    <title>真の影響力</title>
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    <published>2010-07-08T02:12:54Z</published>
    <updated>2010-07-08T02:23:32Z</updated>

    <summary>　影響力ってどこから生まれるものなのでしょうか。　人はどんなプロセスを経て感化さ...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>　影響力ってどこから生まれるものなのでしょうか。<br /><br />　人はどんなプロセスを経て感化され、行動が変えられ、人生に変革がもたらされるのでしょうか。<br />&nbsp;<br />　マザーテレサという人がいました。彼女はひたすら目の前の貧しい人を愛し続けました。<br /><br />　彼女は何も大きなことをしようなんて考えていなかった。<br /><br />　有名になろうだなんて考えていなかった。<br /><br />　でも気づいた時にはノーベル平和賞を受賞して、その生涯は映画化され、召された今でも世界中の人に影響を与え続けているのです。<br /><br />　彼女は言いました：「私たちには、大きな働きは出来ない。ただ小さな働きを大きな愛でできるのだ。どれくらい大きなことを成すのかが問題ではない。どれくらいの愛をその中で示すかが重要なのだ。」<br />&nbsp;<br />　世界のリーダーの中のリーダーと言われる人に、ジョンマクスウェルという人がいます。<br /><br />　リーダーシップに関する著書も５０冊以上執筆している彼が、２０年間ずっと自分に言い聞かせているという言葉があります。<br /><br />　それは、「People don't care how much you know, until they know how much you care」（人にとってあなたにどれだけ知識があるかは大して重要ではない。どれだけ自分を気にかけてくれるのかが重要なのだ。）。<br />　<br />　私たちにどれだけ知識があるのか、どれだけ今まで働いて来たか、どんな地位を築いているのか、どんな面白い話ができるのか、そんなの実はあまり大きな問題じゃないと彼は言うのです。<br /><br />　それより何より、どれだけの「私」のことを愛しているか。大切に思ってくれているか。<br /><br />　そこを人はじっくり観察しています。<br /><br />　目立つ場所で華やかに知識をひけらかすことではなく、舞台裏で犠牲を伴い、涙と汗にまみれながらも自分一人を愛してくれる、そういう本物の愛を人があなたの中にみる時、あなたの影響力は爆発的な威力を持って広がっていくことでしょう。<br /><br />　　イエス・キリストは、言いました：「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」<br /><br />　その言葉通り、彼は生涯でひたすら目の前の人を愛し続け、３年間で世界をひっくり返したのです。<br /><br />　３年間目の前の人を愛し続けた彼の影響力は、２０００年経った今なお世界の約半数の人達にインパクトを与え続けています。<br />&nbsp;<br /><strong>愛は決して絶えることがありません。（Ⅰコリント１３：８）<br /><br /></strong><br /><a href="http://revivaljapantimes.com/">松本務</a></p>]]>
        
    </content>
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    <title>すべての源である神</title>
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    <published>2010-07-06T05:10:48Z</published>
    <updated>2010-07-06T05:13:25Z</updated>

    <summary>　今から3000年ほど前、中東にユダヤ人による初の統一国家、イスラエル王国が誕生...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　今から3000年ほど前、中東にユダヤ人による初の統一国家、イスラエル王国が誕生しました。その卓越した手腕によって、王国を強大な国家とし、隆盛を誇った国王がダビデです。<br /><br />　史実でも目覚ましい名を残しているダビデの業績は、聖書に詳しく記されています。<br /><br />　ダビデは神から愛され、自身も神を愛し、忠実に神を慕っていました。<br /><br />　そのダビデには、国家の繁栄と同様に、首都エルサレムに神の神殿を建築するという大業を息子のソロモンへ承継させるという使命がありました。<br /><br />　ダビデはそのイスラエル王国のすべての権力、地位、富、名声をその手中に治めていながらも、神殿の建築を目前に控え、このようにして神をほめたたえ、彼の計画を主にゆだねました。<br /><br />　<strong>「主よ。偉大さと力と栄と栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。」　（歴代誌　第一　29:11）<br /><br />　</strong>聖書では、神がこの地にあるものをすべて造られたと言っています。<br /><br />　自分がいくら豊かに財産を所有し名誉を受けていようとも、それらはすべて造られたものです。<br /><br />　すべてのものは神からくるということをダビデは知っていて、すべての栄光は神に帰するべきであるということを実践しました。<br /><br />　そして、息子ソロモンはダビデの念願であった神殿建築を無事に成し遂げ、彼にはこれまでのどの王よりも大きな祝福が与えられました。<br /><br />　私たちが今持っていると思っているものは、すべて神から与えられたものです。<br /><br />　私たちが持っている富や権力は有限ですが、創造主である神にはすべてに限りがありません。<br /><br />私たちが神を愛し、信頼する時、神が私たちの必要に応え、すべての良いものを豊かに与えてくれます。神がすべての源です。</p>
<p><strong>　神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。　（コリント人への手紙 第二9：8）<br /><br /></strong><br /><br />国際ナビゲーター</p>
<p>鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>ナタナエルの物語</title>
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    <published>2010-07-05T02:10:30Z</published>
    <updated>2010-07-05T02:16:19Z</updated>

    <summary>ヨハネ１章４２節から４９節に出てくるナタナエルという人の話です。 　それは日差し...</summary>
    <author>
        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>ヨハネ１章４２節から４９節に出てくるナタナエルという人の話です。 <br /><br />　それは日差しの強い日でした。<br /><br />　漁から帰って来たナタナエルは、シャワーを浴び、昼食をとり、彼の"木"に向かいます。<br /><br />　彼が聖書を学ぶいちじくの木。彼の家の目の前にそびえ立つ大きな木。<br /><br />　枝が幾重にも重なり大きな陰を作っています。<br /><br />　熱い太陽の日から隠れられ、周りの人からも隠れられるその陰の下は、ナタナエルにとって聖書を学ぶ絶好の場所でした。<br /><br />　当時その地域の人達の間では、聖書を学ぶ場所として、いちじくの木かぶどうの木の下を選ぶことが一般的でした。<br /><br />　彼はひとつのいちじくの木を自分の祈りの場所として選んだのです。<br /><br />　それはナタナエルにとって非常に重要な場所でした。 <br /><br />　ナタナエルは、ガリラヤのカナという地域に住んでいました。<br /><br />　彼は漁師でした。彼の父も漁師、その父も漁師。<br /><br />　彼は幼いころから漁をしながら育って来たのです。<br /><br />　漁にかけてはプロ中のプロ。魚のことは何でも知っているような男でした。<br /><br />　しかし同時に彼は聖書も熱心に学んでいました。<br /><br />　彼の一日は、こんなふうに始まります：朝４時頃、まだ暗いうちに起き出し、漁に出ます。１０時頃まで魚を捕り、帰って来てから、いちじくの木に向かい、そして数時間、その木の下で静まって時を過ごすのです。<br /><br />　聖書を学び、瞑想し、祈ります。そこは彼にとって"聖なる場所"なのです。<br /><br />　そしてそこで、その時間の締めくくりとして、ナタナエルが毎日欠かさずにおこなっていたことがありました。それは、一つの祈りでした。<br /><br />　それは、王が来ることを待ち望む祈り。<br /><br />　救い主がこの地にやってきて、彼の王国を建国するのを願う祈り。<br /><br />　その祈りが彼の毎日の祈りとなり、彼の切実な願いとなっていました。 <br /><br />　その日もいつもと同じです。仕事が終わり、"その木"のところまでやってきたナタナエル。ひざまずき、静かな祈りの中、神との交わりの時を持ちました。<br /><br />　仕事のことを祈り、自分の内面の葛藤を話し、そしてこれからの人生のことを祈ります。<br /><br />　聖書を読み、その箇所を熟考する時間もしっかりとりました。<br /><br />　そしてこの時間も、いつものお決まりの祈りで締めくくるんですね。<br />　<br />　神が聖書で約束して下さっている救い主が早く来るように。<br /><br />　聖書を読み込んでいた彼は確信していたのです。</p>
<p>神がこのメシアを送って下さる日が近いということを。<br /><br />　神はもうじきその救い主をこの地に送り、この国を立て直して下さるのだと。 <br /><br />　その日の午後、彼が翌日の漁のために網を繕っている時、友達のピリポが走って彼の方に向かってくるのを見ました。<br /><br />　ピリピは興奮した様子で近づいて来て言います：「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」<br /><br />　ナタナエルは当惑してしまいます。"何を言っているのだこいつは。この男は、聖書を読んだことが無いのだろうか"って。<br /><br />　聖書を読み込んでいたナタナエルは知っていたのです。<br /><br />　ナザレという地名は聖書の中にただの一度も出てこないことを。ナザレは、全人口が２０００人にも満たない小さな町なのです。そこで彼はポリポに答えて言います：「ナザレから何の良いものが出るだろう。」<br /><br />　しかしピリポはナタナエルをがっしりとつかみ、緊迫した様子で言うのです：「来て、そして、見なさい。」<br /><br />　ナタナエルは立ち止まり、考えました。<br /><br />　そして彼の友のその緊迫した様子を見て、一度行って見てみようと決めるのです。 <br /><br />　そのピリポが話していた人に近づくやいなや、その人?イエスは、ナタナエルに向かって言います：「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」<br /><br />　いきなりそんなことを言われたナタナエルは驚いてしまいます。<br /><br />　何故彼は自分のことを知っているのだろうか。<br /><br />　ピリポが自分のことを話したのだろうか。<br /><br />　それとも彼は自分の両親を知っているのだろうか。<br /><br />　そこでナタナエルは聞きます：「どうして、わたしをご存知なのですか。」<br /><br />　イエスは、ゆっくりナタナエルの目を見て、そして言います：「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」 <br /><br />　いちじくの木。そのフレーズを聞いた瞬間、ナタナエルの頭の中でピーンと線が通り、すべてのつじつまが合いました。<br /><br />　ナタナエルは知ったのです。<br /><br />　毎日あのいちじくの木の下で自分が会っていた人は、このイエスだったのだと。<br /><br />　いちじくの木の下で自分の祈りを聞いてくれていたのはこの人だったのだと。<br /><br />　イエスこそが自分に聖書を通して語りかけ、今まで人生をガイドし続けてくれた人だったのだと。<br /><br />　そしてもう一つ、彼は知りました。それは、イエスこそ、彼が何年もの間待ち続け、祈り続けて来た方なのだということを。<br /><br />　彼は、メシアなのだということを・・・。<br /><br />　こらえきれなくなったナタナエルは叫びます：「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><a href="http://revivaljapantimes.com/">松本務</a></p>]]>
        
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    <title>どちらが最初？</title>
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    <published>2010-07-01T23:22:18Z</published>
    <updated>2010-07-01T23:27:10Z</updated>

    <summary>　長く会わなかった人に久しぶりに会った経験はありますか。　そんなとき、打ち解ける...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　長く会わなかった人に久しぶりに会った経験はありますか。<br /><br />　そんなとき、打ち解けるのが難しいことがあります。互いに会いたいと思っていても簡単なことではありません。<br /><br />　私はマレーシアにペンフレンドがいました（Emailの前の時代です）。<br /><br />　彼女とは手紙のやり取りだけで会ったことはなかったのですが、ある時マレーシアに行く機会ができて、ボルネオ島のサラワクのクチンに立ち寄りました。<br /><br />　５日間滞在してなんとか彼女に会おうとしました。<br />　<br />　私が持っていたのは彼女が働いているという農場研究所の住所でしたが、どんなところなのか見当もつきません。<br /><br />　いろんな人に聞いてまわり、バスで３時間いったボルネオのジャングルの中にあることがわかりました。<br /><br />　バスに乗ったものの、バス停がわからずジャングルの中で迷子になってしまうのではないかと不安になりました。<br /><br />　言葉は全くわかりません。しかし、ついに正しいバス停で降りて研究所を見つけました。<br /><br />　　しかし彼女は２年前にそこを辞めていました。<br /><br />　そこの人たちが、彼女は大学にいるはずだと教えてくれたので、また３時間バスに揺られてクチンに戻り、タクシーで大学へ行きました。<br /><br />　しかし、いったいどうやって彼女を見つければいいのでしょう。<br /><br />　タクシーを降りて最初にあった女性に、彼女の名前を言ってみました。<br /><br />　「この女性をご存知ですか」「ええ、知っていますけど」「本当ですか！」「ええ、私がその人よ」<br />ついに彼女に会えたのです。<br /><br />　ところが彼女はあまり嬉しそうではありません。やることがたくさんあって忙しかったのです。<br /><br />　「来週、来てくれないかしら？」「来週には帰らなくちゃいけないんだ」「そう、残念だわ」それでお終い。<br /><br />　私たちが誰かを「たずね求め」ても、その人は、見つかることを願っていないことがあります。<br /><br />　しかし、うれしいことに、神は見つけてほしいと願っています。<br /><br /><strong>　あなたに代わって、私の心は申します。</strong></p>
<p><strong>　「わたしの顔を、慕い求めよ」と。</strong></p>
<p><strong>　主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。（詩篇27・８）<br /></strong>　<br />　あなたや私が神をたずね求める前に、神がそれを望んでおられ、「尋ね求めよ」と語っておられるのです。<br /><br />　あなたが神を探し求めているなら、探そうとを考えたりしているなら、神はずっと前からあなたを待っておられます。<br /><br />　あなたが神を捜し求めていないとしても、待っておられます。<br /><br />　探されたい、見つけられたいと願っておられるのです。<br /><br />　隠れておられません。あなたと顔と顔を合わせて出合うとき、神はどんなに喜ばれることでしょう。<br /><br /><br /><a href="http://www.al-pha.com/alex/new_instructor.html">ジェフ・ディーン</a></p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
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    <title>良い行い</title>
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    <published>2010-06-30T02:25:52Z</published>
    <updated>2010-06-30T02:29:43Z</updated>

    <summary>　「信仰」と「行い」を考えたとき、聖書では、まずは何より信仰が大切であると記して...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　「信仰」と「行い」を考えたとき、聖書では、まずは何より信仰が大切であると記しています。<br /><br /><strong>　あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。　（エペソ２・８－９）<br /><br />　</strong>行いではなく、恵みの土台の上に立つ信仰によって救われるとあります。<br /><br />　どんな良い行いをしたとか、偉業を達成したとかいうことは、救われる（神のもとで永遠のいのちが与えられる）ことには関係がないと言っています。<br /><br />　しかし一方で、面白いことに、良い行いをすることの大切さもまた、聖書のあちこちで語られているのです。<br /><br />　私たちは、良い行いをするために造られた、とあります。良い行いをするということが、私たちの一つの大きな存在理由だということを示してくれています。<br /><br />　私たちが良い行いをしていくときに起きること、それは、私たちが人々にとって有益な存在になっていくということです。<br /><br />　<strong>それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。　（テトス３・８）<br /></strong><br />　人々に有益な人は、多くの人から好かれ、周囲に人が集まってきます。会社や組織の中でも、有益な人材は重宝されていきます。<br /><br />　同時に、良い行いをすると、神それに報いてくれるとあります。<br /><br />　<strong>神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。（ローマ２・６）<br /><br />　</strong>神の報いは、この肉体が生きている間に報われることもあれば、肉体が滅びた後の報いであるかもしれません。どんな報いを受けることができるのか、楽しみなことでもあります。<br /><br />　イエス・キリストは、敵の迫害がいよいよ迫る中、弟子たちに大切な戒めを与えました。それは「互いに愛し合いなさい」という戒めでした。<br /><br />　愛の表現、そしてその愛の行動の発露にはいろいろなものがありますが、聖書はこう勧めています。<br /><br />　<strong>子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。　（Ⅰヨハネ３・18）<br /><br />　</strong>この「良い行い」が、イエス・キリストの最も偉大な戒めの一つである互いへの愛を、具現化するのです。<br /></p>
<p>国際ナビゲーター</p>
<p>鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>神は交渉する人がお好き？</title>
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    <published>2010-06-29T04:51:18Z</published>
    <updated>2010-06-29T04:54:46Z</updated>

    <summary>　難しい交渉の場面に立ったことはありますか？たとえば値段交渉とか。　以前インドを...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p>　難しい交渉の場面に立ったことはありますか？たとえば値段交渉とか。<br /><br />　以前インドを旅行したとき、友人がＴシャツ１枚を１時間値切って買うのに付き合いました。<br /><br />　もとの値段は55ルピーだったのですが、友人は10ルピーに負けろと譲りません。<br /><br />　Ｔシャツの品質や価値を吟味し何度も立ち去るふりをして、ついに10ルピーで買うことができました。<br /><br />　ところがしばらく行くと、別の店で同じ品が５ルピーで売られているではありませんか。<br /><br />　友人はすっかりしょげ返りました。<br />　<br />　人と交渉するのも簡単なことではありませんが、神と値切り交渉をするというのは想像できますか？<br /><br />　あなたは創造主と相対することができるでしょうか。アブラハムはなんとそれに成功しました！<br /><br />　ある日、神はアブラハムに、ソドムとゴモラの町に自分は怒っており、町を滅ぼす計画をたてていると話します。（創世記18：20）。<br /><br />　アブラハムも２つの町の罪の深刻さには気づいていました。しかし神に、町に50人の正しい人がいたら滅ぼさないでくれるようにと願います。<br /><br />　神がそれを受け入れると、アブラハムは条件を広げていきます。<br /><br />　では45人だったら、<br /><br />　40人だったら、<br /><br />　30人、<br /><br />　20人、<br /><br />　10人、<br /><br />　と続けます。<br /><br />　人数を問うたびにアブラハムは決まり悪そうにするのですが、神が条件に応じるまで止めません。<br /><br />　（神も本心では町を滅ぼしたくはなかったと思うのですが）結局、神と交渉して満足できる条件を引き出しました。<br />　<br />　この話は、交渉に成功するためのアドバイスをくれます。<br /><br />　アブラハムが成功した理由のひとつは、失敗が許されなかったからでしょう。<br /><br />　町の住人の命がアブラハムの肩にかかっていました。アブラハムは自分のプライドを捨て、何度も何度も神に頼みました。<br /><br />　あなたには、自分のことでないことのためにプライドを捨て、自分の心地よい立場を離れ、何度も何度も交渉する用意がありますか。天と地を揺るがせる覚悟がありますか。<br /><br /><a href="http://www.al-pha.com/alex/new_instructor.html">ジェフ・ディーン<br /></a>　</p>]]>
        
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    <title>神の価値観</title>
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    <published>2010-06-28T01:16:35Z</published>
    <updated>2010-06-28T01:35:21Z</updated>

    <summary>　ヨハネの福音書３章２２節−３０節には、バプテスマのヨハネとその弟子達とのやり取...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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        <![CDATA[<p>　ヨハネの福音書３章２２節−３０節には、バプテスマのヨハネとその弟子達とのやり取りが記されています。<br /><br />　当時ヨハネはバプテスマ（洗礼）を人々に授けていました。<br /><br />　右から左へ次から次へと人がやってきて洗礼を授ける。町の話題はいつも彼のことで持ち切り。その町に一大センセーションを巻き起こしていたんですね。<br /><br />　ヨハネの弟子達は誇らしげでした。「おれたち注目されてるぞ。町のうわさになっている。おれたちは大きな働きしてるんだ。」と自信満々です。<br /><br />　ところがそんな時に問題が起こった。<br /><br />　数日前にヨハネがバプテスマを授けたあのナザレのイエスという男が、ちょっと離れた向こう側の湖でバプテスマを授けはじめたというのです。<br /><br />　それだけならまだいい。それだけならまだ許せるんだけど、問題なのは、なんと人々がどんどん彼の方に行ってしまって、ヨハネのところから人が離れていってしまったっていうこと。<br /><br />　ヨハネの弟子達は面白くなかった。「なんだ、あの男は」と。「あの男はヨハネ先生からバプテスマを受けたくせに、ろくに挨拶にも来ないで、もっと多くの人を惹き付けている。」<br /><br />　彼らは自分達が注目を浴びなくなっていることに我慢できなかった。このどこの馬の骨とも分からない男に自分達の仕事を取られてたまるかって思いました。<br /><br />　彼らはヨハネの元に来て言います。</p>
<p>　<strong>先生。見て下さい。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そしてみなあの方のほうへ行きます。（ヨハネ３・26）<br /><br />　</strong>日本語では、「あの方」となっていますが、これは「あいつ／あの男」というようなニュアンスです。名前すら出さないところに、彼らの強いねたみが垣間見えます。<br /><br />　彼らには致命的な問題が２つありました。<br /><br />　ひとつ、彼らは自分が何者かを知らなかった。自分達がすごい仕事をしていると酔っていた彼らは、誰のために、何のために仕事をしているかを理解してなかった。<br /><br />　ふたつ、彼らはイエスが何者かを知らなかった。「立派な働きをしているおれたち。ここにきてこのイエスというでしゃばった男はなんだ。」と思ったのです。<br />　<br />　彼らの葛藤を目にしたバプテスマのヨハネは静かに語り始めるんですね。<br /><br />　<strong>ヨハネは答えて言った。「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることは出来ません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」（ヨハネ３・27）<br /></strong>　<br />　ヨハネは、自分が何者であるかというのをしっかり理解していました。<br /><br />　私はキリストではない。その前に遣わされたものだ。<br /><br />　私は花婿ではない。花嫁と一緒にいて会場を盛り上げる友達だ。<br /><br />　私は盛んになるものではない。目立つものではない。衰えていくものだ、と。<br /><br />　そして彼はキリストが誰かをしっかり理解していました。キリストイエス。救い主。王なる神。<br /><br />　花婿であり、歓迎されるお方。人類が待ち望んだ救世主。盛んになるお方。栄光をお受けになる唯一の存在。<br /><br />　「キリストは盛んになり、私は衰えなければなりません。」そう明快に言い放った彼は、数ヶ月後首をはねられ殺されるんです。<br />　<br />　そうすると不思議なことが起こります。「衰えなければならない」といって賞賛や栄光をすべて放棄して死んだバプテスマのヨハネが、後にイエスにこう賞賛されるのです。<br /><br />　<strong>女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。（ルカ７・28）<br /></strong><br />　すべての賞賛を放棄したはずのヨハネが、キリストから最高の賞賛を受ける。ここに真理があります。<br /><br />　神の価値観は、この世の価値観と違うのです。先の者が後になり、後のものが先になる。高い者は低くされ、低い者は高く上げられる。衰えたものが誉められ、へりくだったものが高められる。<br />　<br />　神の価値観で生きる人生というのは、華やかに生きることを求めることじゃないです。<br /><br />　目立ち、地位を築き、賞賛され、力を得ることではない。<br /><br />　往々にしてそれは「こんなの回り道だ！」と効率悪く思えることだったり、「全然意味ない」って思える小さなことだったりします。<br /><br />　もしかしたら一般の人から「負け組」のレッテルを貼られる道かも知れない。<br /><br />　それでも、私たちが神の価値観をしっかり自分のスタンダードとして生きるとき、この世的に失敗だと思われていても、神様が時とともに高めて下さるんですね。<br /><br /><br /><a href="http://revivaljapantimes.com">松本務</a><br /><br /></p>]]>
        
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    <title>応えられる祈り</title>
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    <published>2010-06-24T01:58:23Z</published>
    <updated>2010-06-24T02:01:00Z</updated>

    <summary>　イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを...</summary>
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        <name>更新者01</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.wind-design.com/">
        <![CDATA[<p><strong>　イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。<br />わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。<br />（ヨハネの福音書14・6）<br /><br />　</strong>聖書では、イエス・キリストを通してはじめて、父である神のもとへ行くことができると言っています。<br /><br />　イエス・キリストを通して、私たちはいま神に願い、求めることができます。その神と人とのコミュニケーションが、祈りです。<br /><br />　イエス・キリストとともに歩む人は、このイエス・キリストの名によって祈ることができます。この素晴らしい名が、祈りに強力な力を与えます。<br /><br /><strong>　あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。　（ヨハネの福音書16・24）<br /><br />　</strong>祈る気持ちは、どんな文化・時代にも共通する潜在的欲求として神から与えられたものです。<br /><br />　それを、私たちはただ祈るだけでなく、神のもとへと通じているイエス・キリストの名によって祈ることが特権として与えられています。<br /><br />　そして、求めれば与えられると、聖書は約束しています。<br /><br />　祈りの応えとして与えられるものは、私たちが祈った通りのものであることもあれば、時に人智を超えた大いなる神の働きであったり、また私たちの願いをはるかに超えた豊かな恵みが示されることもあります。</p>
<p>　しかし同時に、次のようなことがある場合は、求めた祈りが叶えられないこともあると聖書は教えています。<br /></p>
<p>１．神から見て、その願いが私たちに良くない結果をもたらすこと<br /><br />２．まだ叶えられるべきではないタイミング<br /><br />３．自分自身の快楽や欲望など悪い動機からの祈り<br /><br />４．自分の祈りを神は応えてくれないのではないかという疑いの心<br /><br />　父である神は、神の子どもである私たちに「良いもの」を与えたいと<br />思っています。<br /><br />　神は良いものを与えてくれるという確信をいつも持ちながら、堂々とイエス・キリストの名によって求めていきましょう。<br /><br />　<strong>何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。（ヨハネの手紙 第一５・14-15）</strong></p>
<p><br /><br />国際ナビゲーター<br />鈴木陽一</p>]]>
        
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    <title>笑うとき、笑うべきでないとき</title>
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    <published>2010-06-22T02:36:46Z</published>
    <updated>2010-06-22T02:41:52Z</updated>

    <summary>　旧約聖書の人物でもっとも重要な一人がアブラハムです。「イスラエルの父」とも呼ば...</summary>
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    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p>　旧約聖書の人物でもっとも重要な一人がアブラハムです。「イスラエルの父」とも呼ばれ、彼の生涯は、聖書の最初の書「創世記」の大きな部分を占めています。<br /><br />　ある日、アブラハムは数人のお客をもてなします（創世記18・2）。突然訪れた客を暖かくもてなし、焼きたてのパンや特上の肉、クリームやミルクなどをご馳走します。そして自分も、木陰でのランチに加わるのです（18・8）。<br /><br />　と、客の１人が「あなたの妻サラに、息子が生まれますよ」と言いました。<br /><br />　信じがたいことでした。サラはすでに年老いていたので、これを聞いて笑いました。<br /><br />　しかし奇跡が起こり、１年後にサラはイサクを産み、この息子がアブラハムの子孫＝イスラエル民族を存続させることになるのです。<br /><br />　聖書のこの箇所を読むたび、いくつかのことを考えます。<br /><br />　１つめは、客をもてなすというのはいいことで、その人たちから何か見返りをもらえるかどうかは関係ないということです。<br /><br />　アブラハムは客に何も期待しないで心からもてなし、そして神からの特別なメッセージを受け取りました。<br /><br />　ふたつめは、誰かが将来の計画や考えを話してくれたときに、気軽に笑い飛ばさないということです。<br /><br />　私たちの目に不可能に思えても、私たちの理解を超えたことがたくさんあります。<br /><br />　神のご計画については特にそうでしょう。<br /><br />　私も同じ立場だったら、きっとサラと同じような態度をとったと思うので、彼女を責められません。<br /><br />　神の計画がなったとき、私たちは本当は驚くべきではないのでしょうが、やはり驚いてしまいます。<br />　<br />　最後に思うのは、神がご自分のひとり子イエスをおくり、この世を救ってくださった事実です。この世を救うとは、全く不可能なことに思えませんか？　<br /><br />　このことを考えると私は、自分の想像を超えた神のご計画を決して笑うまいと、決心を新たにします。<br /><br />　ジェフ･ディーン</p>]]>
        
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