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wind-designとは
昔から風は神の息と言われてきました。また聖霊(神の霊)は風とも言われています。
聖霊は吹きたいところを吹きます。
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全て必要なことは聖書の中に書いてあります。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネ8:32

どこの宗派にも属さず、宗教という形式ではなく、自由でのびのびとした視点で解説しています。
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(ものみの塔・モルモン教・統一原理とは無関係です)
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友の愛
2010年9月 6日

 男同士がお互いを心から愛し、深い絆で結ばれる。

 そんな熱い男たちの強い絆を、一つの真実の友情の形を、聖書は私たちに示してくれています。

 それはダビデとヨナタンという二人の男の物語です。

 ダビデは神への深い信仰を持ち、神に選ばれ、やがてイスラエルの国王となるという特別な使命を受けていました。

 ヨナタンは、当時のイスラエル国王サウルの息子で、勇敢で武芸にも秀でた王子です。

 二人が出会ったとき、衝撃的なことが起こりました。

 聖書にはこう記されています。

 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。 (Ⅰサムエル18:1)

 
王子ヨナタンが、ダビデにいわば一目惚れをしたのです。

 ヨタナンの父である国王サウルは、戦果を上げ民衆の人気をどんどん集めていくダビデに嫉妬し、国王の座を追われることを恐れてダビデを殺そうとします。

 しかしヨナタンは、徹底的にダビデの味方となり、彼の助け手となりました。

 サウルの不穏な動きを逐一ダビデに報告し、危険から逃れるよう勧めたのです。

 もしダビデがいなくなれば、国王に父サウルが居座り続け、やがては自らが国王になることも容易に考えられました。

 実の父、そして国王であるサウルの命令よりも、ダビデへの愛を選びました。

 王子としての自らの立場よりも、神が国王として選んだダビデを尊びました。

 そして二人は誓いを交わします。

 ヨナタンは、父が企てるダビデ殺害の計画を耳にした時にはすぐにそれをダビデに伝え、危険から身を逃れる手助けをすること。

 ダビデは、ヨナタンへ主の恵みを施すことです。

 ヨタナンは、命がけでダビデを助けました。

 おかげでダビデは遠くへ逃れ、危険から離れることができました。

 やがてヨナタンは、敵の戦いに敗れ、帰らぬ人となりました。

 ダビデの深い嘆きと悲しみは、歌となってこう記されています。

 あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。 (Ⅱサムエル1:26)

 
実はヨナタンには、足の不自由な子がいました。

 ダビデはヨナタンの死後、その子を見つけ出し、サウルの土地をその子に返し、いつでも王の食卓で食事をしてよいと告げました。

 こうして二人の誓いが全うされたのです。

 自分のことは全く顧みずに、自らが惚れ込んだ男、そして神に選ばれた男を最後まで愛し続けたヨナタン。

 そのヨナタンの思いをしっかりと受け止め、誓い通りヨナタンの子孫に恵みを施したダビデ。

 麗しい二人の友情の物語は、聖書の中でもとりわけ美しい光を放ち、3000年以上を経た今に至るまで、またこれからの世にあっても、色あせることなく語り継がれることでしょう。

 友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。 (箴言17:17)

人に拒絶され、神に選ばれる
2010年8月28日

 聖書にはいくつも不思議な話がありますが、中でもとりわけ不思議なのが旧約聖書の『士師記』にあります。

 この時代、周囲の敵から国を守るためイスラエルは神に選ばれたリーダー、士師が治めていました。

 そのリーダーのひとりがエフタです。
 
 エフタについて聖書からわかることは、1)勇敢な戦士だった 2)娼婦の息子だった(士師記11:1)ことです。

 当時イスラエルはアモン人(おそらくヨルダンの首都アンマンと関係のある民族でしょう)から攻撃を受けており、自分たちを救ってくれる強力なリーダーを求めていました。

 そこに現れたのがエフタです。
 
 しかしエフタは苦い思いを抱いていました。

 彼の腹違いの兄たちから、娼婦の子どもだというのでいじめられていたのです。

 「お前の相続分はない」(11:2)と言われていました。

 しかも、家族だけでなくイスラエルのリーダー達もエフタを憎んでおり、家族の家を追い出されたのです。

 自分が生まれる前の出来事のせいで憎まれたり差別されたりするというのは、なんと理不尽なことでしょう。

 実際今日でも、親が正式に結婚していないこと、言葉のなまり、出身地、肌の色など本人がコントロールできない理由で差別を経験する人は少なくありません。

 残念ながら世界は差別や偏見が満ちています(私も外国人であるという理由で日本で差別を経験したことが何回かあります)。

 人間の目からエフタは見下されていました。

 しかし神は決して彼を忘れず、イスラエルを救うためにエフタを用いたのです。

 彼は力強いリーダー、戦士となっただけではなく、人々を神の元へと連れ戻すというすばらしい働きをしました。

 自分がコントロールできないことで、誰かからから軽蔑されたことがありますか? 差別されたことがありますか? 
 
 この世で、人生は必ずしも公平でも公正でもありません。

 しかしこの世以上のものがあるというのは「グッドニューズ」です。

 神はあなたをありのままで受け入れ、決して差別せず、愛しておられます。

 そして、エフタに対してそうであったように、想像を超える大きな計画をあなたのために持っておられるのです。

 神に期待しましょう。


 ジェフ・ディーン

エデンの園の木
2010年8月27日
 聖書によると、神は人間を造る前に、人間が必要とするものをすべて創造しました。

 光と闇を創り、山を造り、川を造り、動物を造りました。

 これらのどれひとつとして、神が存在するために必要なものではありませんでした。

 すべては人のために造られ、人がそれを楽しみ管理するようにとされたのです。

 そして、神自身は休みを必要としなかったのに人のために休みの日を作りました。

 そして神は1本の木を造りました。

 「善と悪の知識の木」です。

 それは特別なもので、実を食べることが禁じられていました。

 人がその実を食べたら「必ず死ぬ」(創世記2:17)と神は宣言しました。

 しかしご存知のとおり、アダムとエバはその禁をを破り木の実を食べてしまいます。

 いったい神はなぜ「禁じられた木」を作ったのでしょう。

 試すためでしょうか。

 園にこの木が存在しない方がずっと良かったのではないでしょうか。

 人に「必ず」死をもたらす木をなぜ造ったのでしょう。

 実はここに神の愛が表されているのです。 

 神は人に「神に従うか、従わないか」という選択肢を与えました。

 もし禁じられた木の実がなければ神に「従う」ことも「従わない」こともできません。

 神は人に選び取る自由を与えたかったのです。それが結局は悪いほうを選ぶことになったとしてもです。

 選択の自由を与えられて初めて、人は神に従うことを選ぶことできます。

 もちろん従わない方を選ぶこともできます。

 それでも神は人に選ぶ自由、愛する自由を与えたかったのです。 

 神がこの大きなリスクをとったのは、私たちと愛の関係を持ちたかったからです。

 自由な意思で神を選んだ人々と関係を結びたかったのです。

 ですからあなたには神を選ぶ/選ばない自由があります。

 さあ、どちらを選びますか。


 ジェフ・ディーン
光と闇
2010年8月26日
 ヨハネの手紙Ⅰで、私たちは「光の中を歩きなさい」「暗闇の中を歩いてはいけません」といわれています。

 それは「神は光であり神には闇がまったくない」(1:5-7)からです。

 光の中を歩くのがよい、ということには多くの人が同意してくれると思いますが、具体的には何を意味するのでしょうか。

 同様に「神は光です」というのは好感が持てますが、いったいどういうことなのでしょう。

 漠然としてわかりにくいコンセプトです。
 
 しかし、著者のヨハネにとって「光の中を歩く」ことは実際的な行動でした。

 自分は光の中を歩いているといっても「兄弟を憎んでいるなら」闇の中にいるのです、と教えました。

 言いかえれば「兄弟を愛するなら」光の中を歩いていることになります(2:9-10)。
 
 兄弟とはもちろん血縁関係のある家族のことではありません。

 私たちは職場の、学校の、スポーツ仲間の、近所の兄弟や姉妹にどんな感情を抱いているでしょう。

 これによって、私たちが光にいるか闇にいるかがわかるのです。

 神はどうして私たちが光の中を歩いているかどうかを気にするのでしょう。

 ヨハネは「闇と光について書いたのは、私たちが神と交わりを持ち、私たちの喜びが満ちあふれるためだ」といっています。

 神は私たちが互いによい関係を持ち、また神とよい関係を持って完全な喜びを持つことを望んでいます。

 関係―relationship これが光の中を歩く鍵であり神が大切にしていることなのです。


 ジェフ・ディーン
カインとアベル
2010年8月24日
 聖書で最初の人類で去るアダムとエバには、カインとアベルという2人の息子がいました。

 ある日2人は神への捧げ物をします。

 カインは農夫だったので穀物を捧げ、羊飼いだったアベルは羊を捧げました(創世記4:3)

 ところが、おかしなことが起こります。神はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの物を拒絶するのです。

 さらに悪いことに、神は理由を全く説明してくれませんでした。

 あなたが誰かにプレゼントをしようとしたのに突っ返され、その理由も教えてもらえないという状況を考えてみてください。

 神はただカインは受け入れられるために「正しいことをするべきだ」としか言いませんでした。

 カインはこの神の扱いに怒り狂い、弟を殺してしまいます。

 神はなぜカインの贈り物を拒絶したのでしょう。

 これが理解できれば、神がカインから何を望み、私たちから何を望んでいるかを知る助けになります。

 新約聖書では「信仰によって」アベルはカインより「すぐれた捧げ物をささげた」とあります。

 そして、信仰によってアベルは「正しい人とみなされた」というのは「信仰がなければ、神に喜ばれることはできないからです」(ヘブライ人への手紙11:4、6)

 カインの捧げ物は良かったかもしかったかもしれませんが、信仰とともには捧げられなかったのです。

 神は信仰ぬきの「捧げ物」、「多額の献金」、「毎週の教会出席」やそれ以外の何物をも喜びません。

 アベルの捧げ物をすぐれたものにしたのは、物そのものではなく、捧げ主の信仰だったのです。

 神は今日、私やあなたの信仰を求めています。
 
 では信仰とは何でしょうか。

 「見ないものを確信し」「神の存在を信じ」「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを信じ」ることです(ヘブライ11:1、6)。
 
 神を捜し求めれば、神を見つけるという報いを受けることができます。

 そしてそのことを神は喜びます。

 そのことでアベルと同様あなたは神に「正しい人」とみなされます。

 神があなたに望んでいるのは、お金でも時間でもなく、あなた自身なのです。


 ジェフ ディーン