
先週、アメリカのコロラド州から、フロリダ州までの長いドライブに友人と繰り出しました。
距離にしてほぼ3050km。止まらずに走り続けて31時間ほどの道のりです。
つくづく、話していて疲れる友達じゃなくてよかった、と思いました。
(相手も私についてそう思ってくれてるといいのですが...)
ここまで続けて一緒にいると、話題も途切れるものです。
どういったいきさつかは覚えていないのですが、気がついたら、日本のTV番組「水戸黄門」の説明をしていました。
友人はアメリカ人で、日本文化に全く触れたことのない人ですから、江戸時代の日本の政治体制から始めて、各エピソードで起こるパターンの説明を延々としました。
日本文化になじみのない人に、黄門様が一般人のなりをして、平民の間に入っていくということがどんな意味を持つのか説明するのは至難の業です。
どう説明したものかと葛藤する中で、イエス・キリストの例を挙げました。
よくよく考えてみると、イエス・キリストと水戸黄門の間には、共通点があるような気がするのです。
「御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、全て御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」
(コロサイ1:15)
すべてのものより先に存在し、すべてのものを造られたお方が、庶民ことを気にかけ、庶民の姿をとって、庶民の間に住んでくださった。
そして、庶民の苦しみを目で見るだけでなく、一緒に体験して下さった。
「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6,7)
水戸黄門みたいだと思いませんか?
ただ、キリストは、危機の瞬間で、水戸黄門のように、印籠を取り出しません。
福音書で、キリストが逮捕されて、裁判にかけられている箇所を読むとき、私は、ついつい、「印籠をだせばいいのに」と思ってしまうのです。
水戸黄門だったら、十字架にかけられそうになった時に、助さん、角さんが出てきて、印籠を取り出し、みんなそこでひざまずいて、ハッピーエンドになります。
助さん角さんも危ない時には、風車の弥七が出てきてくれます。
「・・・キリストは人としての性質をもってあらわれ、自分を卑しくして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
(ピリピ2:7,8)
一方、キリストは、裁判にかけられた時にも、また、十字架の上でも切り札の「神様札」を出さずに、死を身に受けます。
誰かが罪の罰を受けなければいけないからです。
キリストが十字架の上でしたことは、善人も悪人も含め、すべての人の罪を背負い、その罰を一挙に引き受けたことだったのです。彼はたった一人で死にました。
私達が体験する、この世の闇、罪の汚さ、人間であることから課せられる制限、恥辱、孤独、拒絶、等々を、一人の人としてその身に受けてくれました。
でも、そこで終わりではありません。預言で伝えられていた通り、キリストは、3日後に死からよみがえりました。
つまり、死を通った後で、ついに印籠を取り出したのです。この印籠で、キリストは、神の絶対的な力と権威をこの世に表しました。
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をおあたえになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえらるためです。」
(ピリピ2:8-11)
毎回水戸黄門のエピソードの終わりでは、黄門様が「ふぉ、ふぉ、ふぉ・・!」と笑いながら、旅を続けます。
そして、黄門様によって助けられた人々は、微笑みの内に黄門様を見送りながら、それぞれの場所で生活を続けます。
黄門様がしてくれたことを心に留め、感謝しながら、また、さらなる正義を望みながら。
TBSの水戸黄門のサイトを見たら、第43部と書いてありました。1969年から始まって全部で1205話になります。驚くべきに毎回毎回同じパターンのスト―リが繰り返されます。
でも、不思議なことに飽きません。日本人はこのストーリーラインが好きなんでしょうね。
私達の中に、「身分の高い、絶対的な権威をもった方が、私達の間に住んでくださり、私達の苦しみを理解してくださり、悪に打ち勝って、正義をもたらして下さる」ことへの強い思いがあるのではないでしょうか?
「ひとりの子が私達のために生まれる。主権はその方にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今よりとこしえまで。」
(イザヤ9:6)
その名はイエス・キリスト。
ひろこ
神はまた、それらを祝福して仰せられた。
「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」
創世記1:32
彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
エレミア1:8
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。
イザヤ41:13
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41:10
天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
詩篇96:11
さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
詩篇90:1-2
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう。」と、いつも言いますように。
詩篇70:4
全地よ。神に向かって喜び叫べ。御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。
詩篇66:1-2
あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。
詩篇43:7
すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
詩篇47:1
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
詩篇40:8
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
詩篇37:4
新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。
詩篇33:3
正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
詩篇32:11
あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
詩篇31:7
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
詩篇30:5
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
詩篇16:8-9
私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。
詩篇9:2
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
詩篇1:2
私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。
第3ヨハネ1:4
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
第1ペテロ12:8
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
ヤコブ1:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル12:2
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ4:4
最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
ピリピ3:1
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
詩篇126:2
雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。
詩篇31:24
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。
詩篇27:14
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。
ヨシュア12:9
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
申命記31:6
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
第1コリント13:13
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
哀歌3:22-23
聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。
イザヤ6:3
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:5
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
創世記2:7
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
Ⅱコリント4:18
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
詩篇23:1
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ43:4
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
詩篇19:1
主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ40:31
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
イザヤ40:8
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
伝道者3:11